復元されたゴッホの「はね橋」
ゴッホの絵とは違うが、これはこれで雰囲気があり絵になる

第4日目(4月12日) マルセイユ〜アルル〜アヴィニヨン〜リヨン

今日はマルセイユからゴッホの愛したアルルの町、かつて法王庁のあったアヴィニヨンを経てリヨンまでの旅である。

マルセイユからアヴィニヨンまで

8時にホテルを出発し、町の中を少し走った後すぐに高速道路に入る。北に向かう港湾沿いの道路で、左手には大きな貨物船がいくつも停泊し倉庫が並んでいる。国際港湾都市マルセイユのもう一つの顔である。しばらく走ると海は丘のかげに隠れ、それから先は丘陵地帯になる。
ラ・マルセイエーズというフランス国歌となっている歌がある。この歌は1792年、フランス革命を倒すために侵入してきた外国軍に対して、マルセイユの義勇兵が出陣する時に歌いだしたもので、いわばフランス革命のシンボルになった。義勇兵たちはこの歌を歌って士気を鼓舞しながらパリを目指したのだろう。我々も今、この故事を思い出しながらマルセイユからパリを目指す長い旅をはじめる。

アルル

バスに2時間ちかく乗って高速道路を降り、田舎道を走っているなと思っていたら小さな川のほとりに着いた。ここにゴッホの描いた「はね橋」の復元されたものがある。バスを降りるとその橋はすぐ近くにあった。ゴッホの絵とは橋の色も周りの情景も違うが、たしかに「はね橋」でこれはこれで絵になる。

写真をとった後、バスに乗りアルル市内観光に向かう。アルルはいかにも田舎の町といった雰囲気だ。バスを降りた近くには青空市場が開かれていた。野菜や果物など日常食料品などを売っている店が多かった。そのすぐそばの公園にゴッホの碑が建っていた。アルルにとってゴッホは忘れることのできない人である。

アルルの街角の青空市場

Vincent van Goghの碑

歩いて少し行くと古代劇場跡が、そしてその少し先には円形闘技場の跡がある。アルル地方は1世紀末ごろローマの植民地になり、この地に劇場や巨大な円形闘技場が造られた。この闘技場跡は、現在でも闘牛場や野外劇の会場などに使われているという。
ところで、我々が円形闘技場を見学している時、近くでデモ隊のシュプレヒコールが聞こえた。なんと言っているのか分からないが、恐らく例の若者の雇用に関する法案に反対するデモだろう。これに関する全国的なストライキも懸念されているだけに、我々もこのデモ隊には関心を持った。その後、フランス国内でこのようなデモやストライキなどに出会うことはなかったが、悩めるフランスの一断面を見たような気がした。

円形闘技場跡
劇場とともにローマ時代に作られたものである。現在も闘牛場などに使われている

古代劇場跡
何か修復工事をやっているようで近づけなかった

円形闘技場から少し行ったところにフォーラム広場があり、その一隅に「ル・カフェ・ファン・ゴッホ」という店がある。ゴッホの描いた「夜のカフェテラス」はこの店がモデルである。店のそばにその絵を描いた立看板が置いてあり、確かにこの場所だと納得できる。ゴッホはアルルに来て明るい陽光のもと希望に満ちて絵の制作をはじめる。「ひまわり」や、この「夜のカフェテラス」などはこの時期の作品である。やがて「同志」ゴーギャンが到着して次第に衝突するようになり、ついには自分の耳を切り落とすという異常な行動をとるようになり破局を迎える。
私は旅行から帰ってから、録画してあった映画「炎の人ゴッホ」を見た。ゴッホがゴーギャンと入った酒場の様子やミストラルが激しく吹きつけるシーンなどが妙にリアルに感じられた。私が見てきたアルルの様子がそのまま写されているような気がしたのだ。

夜のカフェテラス
ゴッホが希望に満ちて制作に励んだ頃の作品である

ル・カフェ・ファン・ゴッホ
ゴッホはこの店をモデルに「夜のカフェテラス」を描いた

ポン・デュ・ガール (ガール川にかかるローマ時代の水道橋)

ルルの町からバスで40分くらいのところにポン・デュ・ガール橋がある。これはローマ時代に建造された石の橋である。橋の部分は275m、水面からの高さは49mある。ローマ人は水源からニームの町まで約50Kmの水道を引き、このガール川にかかる橋の部分が遺されている。橋は3層になっており、現在、一番下の層が道路として使用されている。我々はこの橋を渡って対岸に渡った。2000年以上も前のローマ人の土木技術力の高さには本当に驚嘆する。

ポン・デュ・ガール(ローマ時代の水道橋)

ポン・デュ・ガールの見える場所にて

アヴィニヨン

ポン・デュ・ガールからバスでさらに30分ほど行ったところにアヴィニヨンの町がある。アヴィニヨンは周囲に城壁が残されている数少ない町のひとつである。バスは城壁の門をくぐって旧市街に入り、まずは昼食。メニューはムール貝のパイ(パイにムール貝の入ったクリームをはさんだもの)、子牛。デザートにはムース。なかなかおいしかった。昼食の後、徒歩で市内見学。

14世紀に法王の都がこの地に移された。15世紀の中ごろにはまたローマに戻ってしまったけれど、その後もアヴィニヨンはローマ法王領として特異な文化の花を咲かせ続けた。フランスに合併されたのはフランス革命の後、1791年のことだ。
法王宮殿は二つの部分からなっている。向かって左側が旧宮殿で、法王ベネディクトス12世が造った。この宮殿は厳しいまでに装飾性がない。向かって右側は法王クレメンス6世が造り、外観の美しさにも意を用いている。宮殿の内部に入る。大革命の後は兵営や牢獄として使われていたため、内部にはあまりたいしたものは残っていない。フランス革命はキリスト教の権威を否定する一面を持っていた。権威の象徴として法王庁内部の装飾品などは破壊され、略奪されてしまったのだ。

宮殿内部の様子
フランス革命の後、内部は破壊、略奪などが行われあまりたいしたものは残っていない

ローマ法王宮殿
左側が旧宮殿で右側が新宮殿。旧宮殿はシンプルで、新宮殿は装飾にも意を用いている

法王宮殿を見学した後、バスに乗りアヴィニヨン橋の見える場所に向かう。この道は城壁に沿った環状の道である。ここの城壁は背が低く何か寸づまりの感じだ。実はかつては城壁の周囲には壕が掘られており、城壁は50mくらいの高さがあったのだが、現在は埋められこのような姿になっている。壕の跡が環状道路になり、城壁はそのまま残されたというわけだ。
バスは少し走り道路脇の駐車スペースに停車した。ここからローヌ川にかかるアヴィニヨンの橋がよく見える。バスから降りて写真を撮る。「アヴィニヨンの橋の上で踊ろうよ、踊ろうよ・・」という歌で有名なアヴィニヨンの橋は「サン・ベネゼ橋」といい、12世紀末に完成した。その後、17世紀末に増水により半壊し、修復されることなく今日に至っているという。橋の中ほどの橋げたの上に小さなサン・ニコラ礼拝堂が建っている。

サン・ベネゼ橋
「アヴィニヨンの橋の上で踊ろうよ、踊ろうよ・・」という歌で世界的に有名な橋だ

アヴィニヨンの城壁
城壁は低く寸づまりの感じがする。かつては壕が掘られていたのだが、今は埋め立てられて跡が環状道路となっている

アヴィニヨンからリヨンへ

再びバスに乗りリヨンに向かう。アヴィニヨンからリヨンまでは約230Km3時間くらいかかるという。
バスはすぐに高速道路に入り、快調に進む。周囲にはブドウ畑が果てしなく続いている。ヨーロッパのブドウの木は日本と違い背が低いが、湿度が低いので日本のように高く育てなくても立派な実がとれるのだという。ブドウの実の収穫の頃にはどのような風景を展開するのだろうか。
午後のちょうど眠くなる時期、私もいつしかウトウトしていた。途中、トイレ休憩をはさみながらやがてバスはリヨンの市内に入った。

リヨン

リヨンはマルセイユに次ぐフランス第三の都市である。市街地の西にフルヴィエールの丘という見晴らしのよい場所があり、バスは市街地を抜けてその丘に向かう。大きな川を渡った。ローヌ川である。この川とその少し先にあるソーヌ川に挟まれた地域はリヨンの新市街であり、ソーヌ川を渡った山側の地域が旧市街になる。この旧市街を抜けて登ってゆくとフルヴィエールの丘に着くはずだ。ところが、バスはまた川を渡り新市街の方向に戻ってゆく。どうも運転手が道を間違えたようだ。結局、最初の道に戻り丘に登り始めたのだが、途中渋滞に巻き込まれて目的地に着いたのは30分くらい遅れてしまった。

ソーヌ川と旧市街方面
旧市街はソーヌ川より山側に広がる

新市街方面の車窓風景
ローヌ川とソーヌ川に挟まれた地域に新市街が広がる

ローヌ川
リヨンはローヌ川とソーヌ川の河畔に発展した町である

丘の上にノートルダム・ド・フルヴィエール寺院がある。到着した時間が遅くなったので、寺院の中に入ることはできなかったが、夕日を浴びた姿はすばらしかった。寺院の少し先が展望台になっており、リヨンの市街地が一望できる。手前側が赤褐色の屋根が続く旧市街、その先に近代的なビルの新市街が続いている。リヨンも大きな都会だということがよく分かる。

フルヴィエールの丘からのリヨン市街の眺望

夕日を浴びたノートルダム・ド・フルヴィエール寺院

ホテルは、フルヴィエールの丘から程近い場所にあった。夕食は21時頃。メニューは、魚のテリーヌ、ソーセージリヨン風、タルト。今日は一日、盛りだくさんな観光だった。

フランス大周遊の旅