鳴海から熱田を経て桑名まで

【歩行データ  第十四日目】  
 

歩行月日: 11月19日(水)

出発場所、出発時間:  熱田のホテル  出発時間 8:30  荷物はホテルに預ける
 
途中の主な経過 (概略時間) 
      名鉄鳴海駅スタート    9:00   
    千句塚公園、千鳥塚   10:10   
    笠覆寺(笠寺)    11:00    
    姥堂、裁断橋跡       12:10     
    宮宿、七里の渡し跡   12:30   昼食
    熱田神宮参拝       13:30    参拝後ホテルに戻り荷物を受け取る
     熱田~桑名間は電車利用   
    桑名駅着   15:00   
    

宿泊場所、到着時間: くわなパークホテル チェックイン 15:20

歩行距離: 約7Km    

熱田から電車で鳴海に戻る
伊勢神宮に向かって東京を出発してから今日で14日目になる。ひざの痛みはいつの間にか解消したが、さすがに疲労がたまってきているようだ。当初の予定では、昨日のうちに熱田まで到着し、今日は熱田神宮をお参りしてすぐに電車で桑名に向かい、桑名から歩きはじめるつもりだった。ところが、昨日は鳴海で日が暮れてしまい、鳴海~熱田間、約7Kmは歩き残してしまった。したがって、今日はこの歩き残した分を歩き、熱田神宮を参拝したあと電車で桑名に向かい、桑名で宿泊することにした。もともと桑名での宿泊は予定していなかったので、桑名のホテルに予約を入れ、さらに以降のホテルの予約を1日ずつずらす必要があるが仕方がない。
この日の行程は短いので、熱田のホテルを8:30頃出発した。このホテルは旧東海道沿いにあるので、荷物はフロントに預けておき、身軽な姿で歩くことが出来る。


鳴海宿スタート。芭蕉句碑など見物
名鉄の神宮前駅から鳴海駅まで電車に乗り、鳴海駅をスタートしたのは9時ころだった。東海道旧道はさびれた商店街が続いているが、宿場の名残はほとんどない。
鳴海宿には芭蕉門人が多かったので、芭蕉句碑などが多く残されている。旧道を少し先で右に曲がると天神社があり、この境内に芭蕉句碑が建っている。『京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲 芭蕉桃青』で、貞享四年に当地で詠まれたものである。
天神社と道をはさんで向かい側に来迎山誓願寺がある。このお寺の境内には「芭蕉最古の供養塔」がある。この供養塔は芭蕉が亡くなった翌月、すなわち元禄七年(1694)十一月に建てられたものといわれている。また、そのそばには芭蕉像を安置する「芭蕉堂」が建てられている。

伊勢参宮歩き旅2

(参考)七里の渡しと佐屋道
東海道は宮から桑名までなぜ海上を船で渡ったのか、誰しも疑問に思うのではないだろうか。下図のように宮から桑名までの間には木曽川、長良川など大きな川の河口があり、陸路を行くためにはこれらを避けて相当遠回りしなければならなかった。この道は佐屋を通るので佐屋道と呼ばれたが、距離が長く時間がかかるので、東海道の正規のルートとして海上の道が採用されたのだろう。
宮から桑名まで海上七里を何時間で行けたのだろうか。天候や風波により差異はあるだろうが、道中記などによると、2時間から4時間くらいを要したらしい。佐屋道を行けば丸一日歩かなければならないのだから、競争にならなかった。しかし、海の船旅を嫌う人や途中の津島神社に参詣する人などもあり、佐屋道を行く人も少なくはなかったようだ。私も伊勢神宮まで歩ききったあと、しばらく期間をおいてこの佐屋道を歩いてみた。

熱田神宮
七里の渡し址を見物したあと、私は熱田神宮に向かった。前回の東海道歩き旅のときには訪れていないので、今回がはじめての参詣になる。西門から境内に入り、玉砂利の参道を進んで拝殿にてお参りする。熱田神宮は正月の初詣参詣者数で明治神宮と競い合っているが、規模といい雰囲気といい、大変よく似ているなと思った。
熱田神宮は延喜式に載る古社で、その中でも格の高い官幣大社である。祭神としては、天照大神、素戔鳴尊(スサノオノミコト)、日本武尊などが祀られている。
熱田神宮は芭蕉の紀行の中で二回現れる。はじめは貞享元年(1684)の「野ざらし紀行」の途次で、このときは、『しのぶさへ枯て餅かふやどり哉』と、熱田神宮の荒廃ぶりを嘆いた句を詠んでいる。二回目はその三年あとの貞享四年(1687)の「笈の小文」の途次で、『熱田御修復 磨なをす鏡も清し雪の花』と、修復された社殿を見て詠んでいる。

ホテルへ戻って荷物を受け取り、電車で桑名へ
熱田神宮に参詣したあと、伝馬町のホテルに戻り、荷物を受け取って名鉄神宮前駅から電車に乗った。名鉄で名古屋まで行き、名古屋から近鉄で桑名に出る。桑名駅にほど近い「桑名パークホテル」に着いたのは15:20頃だった。近くのコンビニで夕食やビールを買い求め、あとは部屋でのんびりと骨休めをした。さあ、明日からまたがんばるぞ。

千句塚公園の「千鳥塚」
旧東海道は少し先で右に曲がり、北に向かって進んでゆく。道なりにしばらく行くと右側に「千鳥塚」の案内標識がある。案内にしたがって右に曲がり細い急な道を登ってゆくと千句塚公園がある。この公園はかなり広い公園で、高台にあるので名古屋方面の眺望が大変よい。かつては鳴海から熱田神宮のあたりまでは鳴海潟と呼ばれる広い干潟が続いていたという。公園の東入口付近に「千鳥塚」の碑が立っている。これは芭蕉に関する碑としては唯一その存命中に建てられたものといわれている。碑は比較的小さなもので、正面に「千鳥塚」と書かれている。

笠寺一里塚、笠覆寺(笠寺観音)
千句塚公園から旧東海道に戻る。少し先で広い県道59号線を横断し、まっすぐ行くと天白川を渡る。その少し先に笠寺一里塚がある。この一里塚は江戸から88番目のもので、名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一のものである。
その少し先の道の脇に「笠覆寺」の大きな石標が立っており、ここから本堂まで参道が続いている。笠覆寺は笠寺観音とも呼ばれ、本尊は十一面観音像だが、秘仏とされ普段は見ることができない。境内に「星崎の闇を見よとや啼く千鳥 芭蕉翁」の句碑がある。このほか多宝塔のうしろに、安永二年(1773)に建てられた『笠寺やもらぬ岩屋も春の雨 桃青』の句碑があるというが、これは見逃した。

笠寺から呼続(よびつぎ)へ
「笠寺観世音」の標柱の立つ西門を出ると、笠寺商店街が続いている。広い県道を渡り、少し先で名鉄の踏切を渡る。近くに本笠寺駅が見える。旧東海道は踏切の少し先で右に曲がり、北に向かって進む。
しばらく歩くと、道の脇に「東海道 宿駅制度制定四百年記念碑」が建っている。これは、徳川家康によって宿駅制度が始められてから400年に当たる平成十三年に建てられたものである。江戸時代のこのあたりの情景について碑文に記されているので紹介しておこう。
『江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。現在は繁華な町となっているが、長楽寺・冨部神社、桜明神社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである。』

宮宿、七里の渡し址
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田には熱田神宮があるため「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の船着場としても栄えていた。船着場の近くにはたくさんの旅籠がひしめいていたというが、現在でもそのうちの一軒「丹羽家」の古い建物が残されている。
「七里の渡し址」は、現在「宮の渡し公園」として整備されている。私がここに着いたのが12:30頃。ちょうど時間もよいので、公園のあずまやの中で昼食にした。今日は天気がよいが、海からの風が冷たい。
公園の先端が渡し場の跡で、当時は神戸(ごうど)の浜と呼ばれる浜辺だった。旅人はここから桑名まで海上七里の船旅をスタートした。現在も水路(堀川)が海まで続いているが、現在の海は約4Km先に退いている。公園の中には「熱田湊常夜灯」が復元されている。寛永二年(1625)に建てられたあと、破損、再建を繰り返していたが、昭和30年に復元された。また、近くには当時近くのお寺にあった鐘楼も復元されている。

笠寺一里塚
江戸から88番目の一里塚。名古屋市内の旧東海道に残された唯一のもの

笠覆寺本堂
笠覆寺は笠寺観音ともいわれる。

芭蕉句碑(千鳥塚)
星崎の闇を見よとや啼く千鳥 芭蕉翁

呼続(よびつぎ)の旧東海道記念碑付近
道の脇に平成13年に建てられた「宿駅制度制定四百年記念碑」が建っている。かつてこのあたりは、西は海で、東は松原を望む景勝の地だったという

笠寺付近の旧東海道の様子
名鉄本笠寺駅から笠寺までの間、昔ながらの商店街が続いている

宮宿中心部へ
呼続町を過ぎ、山崎川を渡ったすぐ先で旧東海道は西に向きを変える。旧道を少し行くと松田橋交差点で国道1号線に合流する。JR東海道線の手前で旧道は国道と分かれ、ほぼ並行して進んでゆく。JRの踏切を渡り、名鉄のガード下をくぐると少し先に姥堂があり、「裁断橋址」の碑と説明板が立っている。この姥堂のすぐ東にかつて精進川が流れており、裁断橋という橋が架かっていた。この橋の擬宝珠に刻まれていた仮名書きの銘文は、天正18年に18歳になる我が子(堀尾金助)を小田原の陣で亡くした母が子の冥福を祈って書いた名文として、この橋を渡る旅人に感銘を与えたという。
この姥堂、裁断橋址碑の建っているあたりからかつての宮宿になる。姥堂の向かい側に私が宿泊した大きなビジネスホテル「エクセルイン熱田」がある。旧東海道をそのまま進むと広い道にぶつかるので歩道橋でこれを渡る。このあたりは伝馬町で、古い建物は残っていないがなんとなくかつての宿場町の面影がある。近くには本陣跡などの説明板も立っているので、このあたりが宮宿の中心部だったのだろう。この道をまっすぐ進むと丁字路になり、右に行くと熱田神宮、左に行くと七里の渡し方面に出る。私はここで左に曲がり、「七里の渡し址」に向かった。

姥堂と裁断橋址碑
裁断橋の擬宝珠に刻まれた銘文はここを通る人に感銘を与えたという。実物は腐食が進んだため現在は市博物館に保存されている

旧東海道、裁断橋址碑の立つあたり
国道1号線とほぼ並行して東海道旧道が残されている。写真右手に姥堂、裁断橋址碑、左手に宿泊したホテル「エクセルイン熱田」がある

宮宿中心部
伝馬一丁目付近の様子。古い建物は残っていないが、なんとなく古い宿場町の面影はある。近くに本陣跡などの説明板もあり、このあたりが宿場の中心だったのだろう

熱田神宮本殿、拝殿

参道の様子

熱田神宮西門大鳥居

来迎山誓願寺山門

誓願寺境内、芭蕉最古の供養塔
正面に「芭蕉翁」の文字、碑陰には「元禄七甲戌十月十二日」と、亡くなった日付が刻まれている。芭蕉が亡くなった翌月に建てられたものといわれている

誓願寺境内に建つ芭蕉堂

千句塚公園より西方(熱田方面)を望む
かつてこのすぐ西から熱田j神宮付近まで広い干潟が続いていたという。現在からは想像も出来ない話だ

千鳥塚
比較的小さなもので、正面に「千鳥塚」、裏面に連衆の名、側面に興行の年月が刻んである。これは芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚である

復元された常夜灯と鐘楼
公園の中に寛永二年に建てられた常夜灯(右)と延宝四年に建てられた鐘楼(左)が復元されている

七里の渡し址
現在、船着場の前は堀川になっており、海はここから約4Kmも先に退いている。かつての東海道の旅人は、ここから海上七里の船旅をスタートした

七里の渡し前の古い旅籠屋
渡し場前のこのあたりには旅籠屋がひしめいていたというが、現在一軒だけ古い旅籠屋の建物が残っている(丹羽家)

芭蕉句碑のある天神社

天神社境内の芭蕉句碑
京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲 
芭蕉桃青

七里の渡しと佐屋道
七里の渡しは、通常は陸地に近いコースを行ったようだが、天候や風波によっては沖回りのコースもとった。道中記などによると、この船旅には2~4時間ほどかかったというが、コースによっても差が出たのだろう。佐屋道はかなり歩いた上に最後は船に乗る。ただ、海には出ないので、海の船旅が嫌いな人や途中の津島神社参詣を兼ねる人などが利用したようだ。