神田川を歩く

高井戸駅〜高井戸橋〜塚山公園〜鎌倉橋、柏の宮公園〜八幡橋、下高井戸八幡神社〜永福橋〜永福寺〜永福の寺町〜下高井戸駅   約5Km

下高井戸から先は川沿いに縄文遺跡や寺社などの旧跡が多くなる。これから先は、これらを見物しながらの「ぶらぶら散歩」の趣でガイドしよう。

井の頭線高井戸駅に連絡して環八を渡る陸橋が設けられている。これを渡ると神田川はすぐそばを流れている。神田川に沿って大きな煙突を持った建物がある。これは杉並清掃工場で、いわゆる東京ごみ戦争の結果誕生した施設である。
川沿いの歩道から階段を上って行くと広場があり、その一角に「高井戸市民センター」が建っている。すぐ後に遠くからでもよく見える大きな煙突が立っているのだが、「清掃工場」というイメージはまったくない。小公園もありベンチで憩う市民の姿も見られた。ここに次のような説明板が立てられていた。

高井戸市民センター誕生 (説明板より)
昭和35年頃の日本は高度経済成長で、大量生産・大量消費の使い捨ての時代でありました。・・・このようなとき昭和41年11月、清掃工場を高井戸のこの地に建設することが発表されました。・・・
地元周辺住民は一致して計画の取り消しを求めて東京地裁に提訴いたしました。被告は東京都で、東京ごみ戦争へと拡大されました。その後、東京地裁の和解勧告により、双方が「和解条項」を合意することで、10年にわたる東京ごみ戦争は終結しました。
この和解条項の内容は非常に画期的で、その後の清掃工場の建設や運営にあたっては住民参加を尊重することが基本となっております。和解条件の一つとして、工場余熱を利用した利便施設を地元住民に提供することで、温水プール・健康増進施設・図書室・集会室などを工場敷地の一角に建設したものであります。・・・・

高井戸市民センター、杉並清掃工場
敷地内に清掃工場と隣接して区民センター、高齢者支援センタ、温水プールなどの施設がある。清掃工場のイメージはまったくない

高井戸陸橋より環八荻窪方面を望む
環八(環状8号線、都道311号線)は今や東京西部の幹線道路である。全線開通は意外に新しく2006年5月で、本格着工から50年かかっているという

環八を渡す佃橋の少し下流に高井戸橋がかかっている。このあたりから下流には川の両側にたくさんの桜が植えられている。かつては高井戸堤の桜として有名だったという。現在でも桜の時期にはすばらしいだろう。さらにしばらく行くと右手には郵政株式会社の広いグラウンドなどがあり、川沿いには気持ちのよい遊歩道が続いている。

郵政グランド付近の川辺風景
右手には広い郵政株式会社高井戸レクリエーションセンターの施設が広がっている
川辺は気持ちのよい遊歩道になっている

高井戸橋より下流方向を望む
かつてこのあたりは高井戸堤の桜として有名だったという。現在も川の両側に桜が多く、花の時期には見事だろう

高井戸橋下流には、正用下橋、池袋橋、乙女橋、堂の下橋と続く。この堂の下橋付近の川底に段差があり、流れが小さな滝のようになっている。源流点付近に比べるとかなり水量が多くなっていることが分かる。玉川上水の「清流」を加えたことも大きいのだろう。このあたりにはたくさんの鯉が泳いでいる。
堂の下橋の少し下流にちょっと凝った形をした塚山橋がかかっている。この橋を渡った右岸一帯は小高い丘となっており、縄文時代の人々の遺跡が残っている。

塚山橋
川の右岸一帯の小高い丘には縄文時代の遺跡があり、塚山公園として整備されている

堂の下橋付近の様子
このあたりには川底に段差があり、水の流れがよく分かる。源流点に比べだいぶ水量が増えている。付近には大きな鯉が悠々と泳いでいた

塚山橋を渡ると公園に登ってゆく細い道がある。付近は武蔵野の面影を残した雑木林である。階段を上ってゆくとちょっとした広場があり、池のそばにあずまやが建っている。その斜め前方に円形の砂場のような施設が見えるが、これは縄文人の住居の柱跡を示したものである。
塚山遺跡は縄文時代の集落跡で、昭和10年に紹介された。その後、昭和13年にはじめて本格的な調査がなされ、昭和48年の発掘調査では住居跡20ヶ所が発見されている。これらの調査によりこの遺跡が縄文時代中期(約3500〜4500年前)の環状集落であることが分かった。
この広場からさらに林の中の細い道を進んでゆくと、復元された住居を見ることができる。また、近くに管理棟が建っており、発掘品などが展示してある。トイレやベンチなどもあるので、しばし休憩して縄文時代の生活に想いをはせよう。

縄文時代中期の復元住居 (説明板より)
この復元竪穴住居は、昭和48年に発掘された1号住居跡をモデルに、不燃化材で建てたものです。
この様式は、武蔵野台地におけるこの時期の典型的なもので、住居床上の中央部やや奥に「石囲い」の炉を掘り込み、住居の四隅がやや丸いことから「隅丸方形」型と呼ばれています。
縄文時代中期の住居跡を見てみると、前葉から中葉にかけての住居形態は円形を基本としていますが、後葉になると次第に方形へと変化していきます。
このような住居形態の変化は、気候の変化に関係があるといわれていますが、この程度の大きさ・空間の住居であれば、日常的な道具(土器や狩猟道具等)を収納しても、親子3人から4人でも、十分に生活できたと考えられています。

復元された住居跡
林の奥には復元された住居跡、公園の管理棟などがある。管理棟には発掘された土器、石器などが展示されている

塚山公園の様子
この付近には縄文時代の住居が環状に並んでいた。現在は公園としてこの付近には池とあずまや、住居の跡を示す施設などがある

塚山橋のすぐ下流に鎌倉橋がかかっている。この橋名については、ここを古の鎌倉街道が通っていたからという説がある。かつての鎌倉街道はこの付近から大宮八幡宮に通じていたらしい。また一説には大田道灌が近くに高井戸八幡神社を建立させた際、鎌倉八幡宮の神霊を勧請したので鎮座地に近いこの橋を鎌倉橋と名づけたともいわれている。
橋を渡って北に少し進み左に曲がって少し行くと柏の宮公園という杉並区立の広い公園がある。少し前まで旧興銀の広大なグランドなどがあったが、杉並区が買い上げ公園として開放した。その公園の神田川に近い緩斜面一帯が雑木林になっており、その中に「林丘亭」という茶室がある。これは矢来町の酒井家江戸下屋敷にあったものを移築したものである。

神田川に戻り先を続ける。右岸を少し行くと所々に桜並木があり、さらに進むと藤和緑地ガある。ここにはカエデの木がいくつかあり、秋には鮮やかな紅葉が見られる。少し先に八幡橋があり、ここで右に曲がるとすぐ近くに下高井戸八幡神社の鳥居が建っている。この八幡神社は、長禄元年(1457)の創建と伝えられている。大田道灌が江戸城築城の際に建てたもので、鎌倉八幡宮を勧請したものという。神社まわりには木々が鬱蒼と茂り、昔の鎮守の森の面影を感じることができる。境内には本殿のほか稲荷神社など四つの小さな祠が並んで建っている。

下高井戸八幡神社
大田道灌が江戸城築城の際(1457)に創建されたと伝えられる。下高井戸宿の鎮守とされた

藤和緑地の鮮やかな紅葉
付近には所々に桜並木もあるが、秋にはここの紅葉が見事だ。裏手一帯は下高井戸八幡神社の境内林となっている

八幡橋に戻り、さらに先を続ける。やがて右岸は広い下高井戸運動場となり、川沿いには桜をはじめとした木々が茂っている。この先の橋は神田橋である。この橋を渡る道を荒玉水道道路という。この道路は北は堀の内の妙法寺あたりから南は千歳船橋を経て多摩川の砧付近まで約10Kmにわたってまっすぐにのびている。この通りの下には水道管が埋設されているが、これは大正期から昭和にかけて多摩川の水を現在の中野区北部から板橋区にかけて給水する目的で敷設されたものだという。
さらに進むと東電総合グラウンドとなり、川沿いにはケヤキなどの茂る歩道が続いている。

東電総合グラウンド付近の神田川
川沿いにはケヤキの並木などが続いている

神田橋と荒玉水道道路
荒玉水道道路はかつて多摩川の砧から中野北部、板橋方面に給水する水道管が通っていたという。現在砧付近から堀の内妙法寺付近まで約10Kmに及ぶ直線道路が残っている。

木々の茂る川沿いの道を進んでゆくと永福橋に出る。この橋を渡る通りは都道427号線で、左(北)にまっすぐ行くと井の頭線、永福町駅、右(南)にまっすぐ行くと京王線下高井戸駅に出ることができる。近くには寺院が多いのでちょっと寄り道してみよう。
まず永福寺に向かう。、都道を北に少し行くと案内板が見える。これに従い右に曲がって道なりに行くと永福寺がある。永福寺の創建は大永2年(1522)と伝えられ、村の名前もこの寺にちなんで永福寺村となった。境内を出て墓地の西側に出ると道を隔てて永福稲荷神社が建っている。鎮守の森に囲まれた稲荷神社はかつては永福寺の境内にあったという。この神社の鳥居は先ほどの都道に面して建っている。ここからさらに北にまっすぐ進めば永福町駅に出るが、ここでは南に永福橋方面に戻ることにする。

永福稲荷神社
祭神は豊受大神で享禄3年(1530)の建立。江戸時代には永福寺の境内にあった

永福寺
大永2年(1522)の創建と伝えられる。永平寺村の名前の由来となった。昭和20年の戦災によりことごとく焼失したが現在、本堂、庫裏が復興している

永福橋に戻り、都道をさらに南に進んで京王線下高井戸駅に向かう。ゆるい坂道を登ってゆくと、よろずや旅館がある。ここを左に曲がると、道の北側に隣接して七つの寺院が建ち並んでおり、「永福の寺町」を形成している。。それぞれのお寺の前には親切な説明板が立てられている。これらの寺院は関東大震災のあと都心から移転したものが多い。昭和20年の戦災でほとんどの寺院が全焼したが、現在ではすべて完全に復興している。

この杉並清掃工場が先例となり、現在では同じような可燃物処理の清掃工場は東京23区内に21箇所あるという。(平成19年10月現在)

柏の宮公園の一角に建つ茶室「林丘亭」
この茶室は、若狭小浜藩主酒井忠勝が新宿区矢来町にあった酒井家江戸屋敷内に小堀遠州に命じて建築したものと伝えられている。昭和34年にこの地に移築された

鎌倉橋
かつてここを鎌倉街道が通っていたために名づけられたともいわれている

東端に位置する真教寺のさらに東には築地本願寺和田掘廟所の広大な墓地が広がっている。築地本願寺は関東大震災により焼失し、その別院がこの地に移された。ここは、もと幕府の焔硝蔵があり、明治以後は陸軍省火薬庫となっていた。廃止とともにその跡が払い下げられ、築地本願寺が広大な墓地を造営した。これが築地本願寺和田掘廟所である。かつて、付近には玉川上水が流れており、水清く小鳥がさえずる自然公園の墓地として有名だったという。現在は玉川上水は埋め立てられ、「永泉寺緑道」として細長い公園になっている。
並行して走る甲州街道を渡り、南に商店街を進めば京王線・下高井戸駅はすぐである。

栖岸院
浄土宗で、本尊は観世音菩薩。大正9年に麹町から移転した。このお寺と隣の永昌寺以外はすべて関東大震災後この地に移転した

寺町の様子
この通り沿いに七つのお寺が並んでいる。手前から永昌寺、栖岸院、法照寺、浄見寺、善照寺、託法寺、真教寺である。

玉川上水の「永泉寺緑道公園」
この付近の玉川上水は、昭和40年の淀橋浄水場廃止とともに埋め立てられ跡地は緑道公園となった

築地本願寺和田掘廟所の墓地
陸軍省火薬庫跡に、昭和9年に築地本願寺の廟所が完成した。樋口一葉、古賀政男、佐藤栄作、水谷八重子など有名人の墓所も多い