神田川を歩く

下高井戸駅~永福橋~井の頭通り~熊野神社~環七、地下調節池施設~釜寺~善福寺川合流点~地下鉄中野富士見町駅、中野通り  約4.5Km

前回に引き続き、京王線下高井戸駅から地下鉄中野富士見町駅まで歩く。途中で善福寺川が合流する。

下高井戸駅から前回と同じ道を永福橋まで戻る。永福橋から下流方面を眺めると、右岸の遊歩道の壁面になにやらたくさんの絵が掲げてある。近くでよく見ると、一つ一つに絵と文がカルタのように描かれている。全部で10枚掲示されているので、ゆっくりと上流側から見てゆこう。はじめのうちは何気なく一つ一つ見てゆくのだが、そのうち「あ、そうか」と気がついた。頭の文字をつなげてゆくと、「か・ん・だ・が・わ・の・お・も・い・で」となるのだ。「かわせみ」などは現在川沿いに見られるとも思えないので、かつていたことがあるという思い出かもしれない。川辺の散歩をする人にひとときのくつろぎを与えてくれる、楽しい趣向だ。

さらに川辺を歩いてゆくと、ひまわり橋、永高橋、明風橋と続き、その先で井の頭線の橋梁が見えてくる。歩道はこの部分が掘り下げられ線路の下をくぐる。井の頭線はここまで神田川の北側をほぼ並行して走ってきたが、ここで川と交差し南東方面に向かい、北東方面に向かう神田川と別れる。

井の頭線の線路を越えると蔵下橋、そのすぐ先に井の頭通りを渡す神泉橋がかかっている。井の頭通りは武蔵野市にある境浄水場から和田掘給水所までの送水管を通しており、水道道路とも呼ばれている。昭和34年からは東村山浄水場や朝霞浄水場からの送水管も通り、都区内西部地域の水道の大動脈である。神泉橋付近の下流側にはこれらの太い送水管が見える。

神泉橋の次は栄泉橋、その次が宮前橋である。この橋の左手、小高い場所に熊野神社の森が広がっている。鳥居をくぐり石段を上るとやや小ぶりな社殿がある。かつての和泉村の鎮守であった和泉熊野神社は、文永4年(1267)に紀州熊野神社を勧請したことに始まると伝えられる。寛永16年(1639)と元禄9年(1696)に社殿改修が行われ、、当時の棟札が現在も社務所に保存されているという。
宮前橋に戻り先を続ける。次の橋は中井橋である。右手に和泉二丁目公園があるが、それと反対の左手の道を少し行き右に曲がると道沿いに小さな神社が建っている。これは貴船神社で、先ほどの熊野神社の末社である。境内の池は「御手洗の小池」と呼ばれ、かつてはいかなる干天にも枯渇することなく、「和泉」の地名はこの池に由来するとも言われている。

貴船神社
熊野神社の末社で、山城国の貴船神社の祭神を勧請したものと伝えられる。境内にかつてあった湧水が「和泉」の地名の由来という
熊野神社
かつての和泉村の鎮守であった。現時の社殿は文久3年(1863)に建てられたものである

貴船神社の前をそのまま進み、少し先で右に曲がると番屋橋に出る。川沿いの歩道を歩いてゆくと一本橋、和泉橋と続く。次の弁天橋付近は現在(2008年1月)まだ工事中であるが、仮歩道が設けられ川沿いに歩くことはできる。弁天橋から次の方南第一橋の間は長い間改修工事中で迂回を余儀なくされていたのだが、最近ようやく工事がほぼ完成し川沿いを歩けるようになった。方南第一橋からは「神田川・環状七号線地下調節池」の大きな取水口が見える。神田川が大雨で増水し一定の量を超えると、ここから環七の下に掘られた調節池に流れ込み洪水を防止することになっている。
環七の道路わき、神田川沿いに神田川取水施設の建物がたっている。その前に大きな説明板がある。

神田川・環状七号線地下調節池 (説明板より)
神田川・環状七号線地下調節池は、環状七号線の道路下(約40m)に延長4.5Km、内径12.5mのトンネルを設置し、水害が頻発している神田川流域の洪水を貯留するものです。

第一期事業(昭和63年着工、平成9年3月完成)
神田川の洪水を約24万㎥取り入れる取水施設とその洪水を貯留する延長2Kmのトンネル設置した。

第二期事業(平成7年から着工)
善福寺川および妙正寺川の洪水を約30万㎥取り入れる取水施設とその洪水を貯留する延長約2.5Kmのトンネルを設置する。

環七方南橋と神田川取水施設の建物
環七は今や東京の大動脈である。その道路の下に合計4.5Kmのトンネルが掘られ、川の洪水防止に役立てている

「平成17年9月4日夜、台風14号に伴う首都圏での局地的な大雨により、方南橋付近の神田川をはじめ、中野区、杉並区内の善福寺川、妙正寺川があちこちであふれ、都内ではおよそ500戸が床上浸水、1500戸が床下浸水という大きな被害が記録された。環七通り下の調節池は1時間に50ミリ程度の降雨を想定しているが、この日の集中豪雨では1時間に100ミリを超す雨量を記録し、調節池は完成後はじめて24万㎥の許容量が、取水から1時間ほどでいっぱいになったという。都では工事中の第二期事業分の調節池にも水を流したというが、水位を下げることはできなかった。」 「神田川遡上」(岩垣顕著より)

私もこの日のことは覚えている。豪雨が降ったのは夜のことなので、それほど大変なことになっているとは知らなかったのだが、翌日のニュースで被害状況を知ってびっくりした。異常気象が懸念される昨今、50年に一度、100年に一度といわれていた災害がいつ起きるとも限らない。防災施設を過信することなく、日常生活での対策を常に考えておかねばならないという教訓だろう。

永高橋付近の神田川
このあたりの川沿いはケヤキなどが多い。少し先の左岸には竹林も見られる

ここで井の頭線と神田川は交差し、それぞれ別の方向に進む

井の頭線神田川橋梁

んんと考えるだ 井の頭公園を源泉として大昔から上水道として大切にされてきた神田川

だみ声の尾長 からす科でカササギに似て色や形は見事だが鳴き声はぎいぎいげえげえと濁音

かわせみさん 川などの土手に巣を作り、空飛ぶ宝石とも翡翠(ひすい)鳥ともいわれるほど美しい

永福橋より右岸下流方向を望む
右岸の遊歩道沿いの壁面に下の写真のようなカルタ風の楽しい絵と文が10枚ほど掲げられている
頭の文字をつなげてゆくと「神田川の思い出」となるさらに10枚の絵のタイトルをよく見ると、しりとりになっていることにも気がつく

神泉橋付近を通る太い水道管
橋の下流側に太い送水管が2本通っているのが見える。浄水場から給水所に送水する重要な水道管である

神泉橋と井の頭通り
井の頭通りは境浄水場からこの少し先の和田掘給水所までの水道管を通すまっすぐな道路で、この間は水道道路とも呼ばれる

環七が通る方南橋のすぐ先の橋は上水橋である。この橋の左手すぐのところに東運寺がある。このお寺は通称「釜寺」といわれ、本堂の屋根の上に大きな釜が乗せてある。説明板によると、この大釜は山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を「身代わり地蔵尊」が助けたという言い伝えにちなむものという。また、山門はもと田村家江戸屋敷の脇門で、浅野内匠守が通ったと伝えられるもので、そのゆかりの人々の冥福を祈って寄進、保存されたものだという。

東運寺(通称釜寺)本堂
戦国の頃に一安上人が、安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を奉じてこの地に念仏堂を建てたのが開創と伝えられる。この身代わり地蔵尊は山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を救ったという言い伝えがあり、それにちなんで当時本堂の屋根に釜を置いたといわれている

東運寺山門(もと田村家江戸屋敷脇門)
田村屋敷といえば、播州赤穂藩主浅野内匠守が刃傷事件を起こした後お預けとなり、庭先で切腹した屋敷として知られるが、その際には内匠守もこの門をくぐったとされる。門は三井家を経て昭和30年にここに寄進されたとのこと

「神田川・環状七号線地下調節池」取水口の様子
水量が一定量を越えるとここから環七の地下に掘られた調節池に流れ込む仕組みになっている

弁天橋~方南第一橋間の工事場所
この区間は長い間改修工事が続けられていたが、ようやく最近工事がほぼ完成し川沿いを歩けるようになった。弁天橋付近はまだ工事が残っているが歩くことはできる

東運寺の東隣に道を隔てて「方南二丁目公園」がある。この公園の入口近くに「釜寺東遺跡」の石標がある。近くに説明板が立っているので紹介しよう。この公園の中には特に展示物や、遺跡関連の設備はない。

釜寺東遺跡 (説明板より)
本遺跡は、東運寺(通称釜寺)周辺を中心にして広がる縄文時代後期(約2500年前)、古墳時代後期(約1400年前)の複合遺跡です。昭和54年度の発掘調査で、台地上に6軒、台地下に3軒の住居跡が発見されました。
遺跡が発見された一帯は、善福寺川と神田川が合流する西側に形成された約10万平方メートルにも及ぶ舌状台地上にあります。古くから「峯台地」と呼ばれたこの付近には多くの遺跡があり、先土器時代(約2万5千年前)から人々が生活していたことが知られています。
釜寺東遺跡からは、住居跡のほかに土師器(はじき)と呼ばれる古墳時代の土器(甕、坏(つき)、埦(わん)、こしき)、首飾りに使われた玉、縄文時代後期の祭り事に使われた石棒が発見されています。

神田川に戻ると川沿いには家が建ち並んでおり、近くにそのような遺跡があることなど想像もできないのだが、少し歩いてゆくと崖と木立がほんの少しだが残っている場所があるとう。ここまできてようやくこの上は台地になっていて古代人たちが住んでいたのだということを納得できる。私はこのあたりを何度も歩いているが、遺跡のことは今回はじめて知った。

神田川沿いの崖地(神田川左岸)
遺跡の近くには家が密集しているが、この付近だけ崖地が残っている。古代の状況をかろうじて想像できる場所だ

釜寺東遺跡の石標
方南二丁目公園の入口近くに立っている。特に遺跡の展示設備はないが、崖地に細くのびる公園で一帯はそれらしい雰囲気がある。公園内にトイレもある

たつみ橋、向田橋、神田橋と過ぎ、次の角田橋で右に曲がると、少し先に多田神社がある。正面の鳥居をくぐり石段を上って行くと木立に囲まれた本殿がある。この地域一帯は、古くは雑色(ぞうしき)村と呼ばれていたが、その鎮守として昔から尊崇されてきた。寺伝によると、当社は約900年前、寛治6年(1092)源義家が大宮八幡宮に参詣のおり、曽祖父にあたる多田満仲(源満仲)をこの地に奉祀したことにはじまるという。このため大宮八幡宮とのつながりが深いという。
多田神社の裏手に隣接して宝福寺がある。真言宗の寺で本尊は不動明王である。もと多田神社の別当寺であったが、創建年代ははっきりしないという。

宝福寺
多田神社に隣接する真言宗の寺院。もと多田神社の別当寺であった

多田神社
寛治6年(1092)、源義家が曽祖父の多田満仲を祀った小祠を建てたのが始まりという。雑色村の鎮守として尊崇された

角田橋に戻り先を続ける。川は北に向かってほぼまっすぐな流れになる。右に中野養護学校の建物を見ながら進むとバスの通る方南通りに出る。方南通りを渡すのは栄橋である。方南通りを越えると右手には地下鉄の中野車庫が広がっている。対岸の植え込みの間からは、地下鉄丸の内線の赤いラインの電車が見え隠れしている。

地下鉄中野検車区の様子
方南通りの陸橋からたくさんの電車を見ることができる

栄橋と方南通り
栄橋は方南通りを渡す。神田川の右手には地下鉄の車庫が広がっている

栄橋を過ぎ川沿いの道をまっすぐに進んでゆくと、善福寺川との合流点に達する。善福寺川は杉並区内の善福寺池に源を発し、約11Kmを流れ下ってここで神田川と合流する。善福寺川の和田広橋を渡って下流側に出ると、合流点の様子がよく見える。左側から来る神田川と右から合流する善福寺川の川幅は同じ、水量もほぼ等量であることがわかる。
合流点から先の神田川は左岸が杉並区和田、右岸は中野区弥生町と、杉並、中野の区界となる。和田見橋、富士見橋と続き、この富士見橋の先は川沿いの歩道がなくなってしまう。富士見橋には本郷通りが通っており、橋の右手に地下鉄丸の内支線の中野富士見町駅がある。また、本郷通りをそのまま進めば中野通りに出る。中野車庫バス停が近くにあり、中野駅、新宿駅西口、渋谷駅などへのバスが頻繁に走っている。今日の散歩はここまでにしよう。

富士見橋と中野富士見町駅
右手に見えるのは地下鉄丸の内支線の中野富士見町駅。橋を渡る通りは本郷通りで、まっすぐに200mほど行くと中野通りに出る

神田川と善福寺川の合流点
左から来る神田川に右手から来る善福寺川が合流する