神田川を歩く

東中野駅~大東橋~神田上水公園~小滝橋~落合水再生センター~高田馬場分水路、妙正寺川~薬王院、氷川神社、おとめ山公園~田島橋~高田馬場駅  約4.5Km

東中野駅の近くに、かつて大きな結婚式場「日本閣」があったが廃止され、その跡が再開発されて大きなタワーが二本建てられた。駅周辺の景観も人の流れも大きく変った。二つのタワーの前を通って神田川にかかる大東橋に出る。この橋から下流方向を眺めると、両岸に桜並木が続いている。
大東橋を渡った新宿区側は、神田上水公園として整備され、遊歩道の道幅も広く、ベンチ、トイレなども整っている。桜並木は小滝橋まで約600mくらい続く。桜の季節には花見客でにぎわう場所だ。

東中野駅から高田馬場駅までの神田川沿いを歩く。川沿いには桜並木も多く、桜や新緑の季節にはすばらしい散歩道になるだろう。神田川はかつて落合で妙正寺川と合流したが、現在この付近で妙正寺川は暗渠化してしまい、合流する姿を見ることはできない。途中、落合周辺の薬王院、おとめ山公園なども見物する。

大東橋から南小滝橋、亀齢橋、小滝橋と桜並木の続く遊歩道を進むと早稲田通りにぶつかり、神田上水公園は終わりとなる。小滝橋の付近の交差点は五差路となっており、大変交通量が多い。歩行者用信号の前(スーパーいなげやの前)に「小滝橋にまつわる昔話」などを記した大きな三角錘の形をした碑が建っている。長文なのでその要約を記してみよう。前に淀橋のところで見た話と対をなすものである。

小滝橋にまつわる昔話‐‐中野長者、鈴木九郎の話-- (碑文の要約)
昔、紀伊国から鈴木九郎という浪人が流れ流れて中野のあたりに住みついた。そのうちに財を成し、その財宝を背負わせて下男に運ばせて土中に隠していたが、帰り道の橋の袂でその下男を切り殺しては川に投げ込んでいた。
この財宝隠しが一段落した頃、一人娘の縁談がまとまり、その婚礼の夜、雷鳴がとどろき黒雲がわきおこって娘は龍の姿になり、飛ぶように走り去ってしまった。父の九郎は後を追ったが、今の淀橋のところで姿が見えなくなってしまった。さらに川を下って探したところ、今の小滝橋のあたりで死骸が見つかったという。このため、淀橋のことを「姿見ずの橋」、小滝橋のことを「姿見の橋」と言うようになったと伝えられている。
長者は下男たちを殺したことを悔い改め、土中に埋めた財宝をもとに自分の屋敷を寺にしたという。これが多宝山成願寺だといわれている。ちなみに、この昔話により、淀橋では大正の初め頃まで婚礼の行列は淀橋を渡ることを避けたという。
なお、この碑には、もう一つ「「油屋の小僧さんの話」というのも記されている。

小滝橋にまつわる昔話を刻んだ碑
歩行者用信号の前(スーパーいなげやの前)に建つ大きな三角錐の碑。正面に二つの昔話、側面に小滝橋の由来などが記されている

小滝橋付近の様子
小滝橋は早稲田通りを渡す。小滝橋のすぐ南側で道は五差路になり、早稲田通りは左に曲がり、高田馬場方面に向かう

小滝橋を渡った早稲田通りはすぐ先で左に曲がり高田馬場方面に向かうが、橋からの道をそのまままっすぐに進むと、道はゆるい登り坂になる。坂の途中の右側に西戸山社会教育館があり、その入口前に「縄文式文化の跡 西戸山遺跡」と刻んだ小さな石碑が建っている。この近くで横穴式住居跡が発見されたのは昭和31年のことで、このあたりは神田川の東に広がる台地の突端にあたり、対岸の落合とともに、古くから集落として開けていたらしい。また、このあたり一帯は戦前は「戸山ヶ原」と呼ばれる陸軍用地で、武蔵野の面影の残る静かな場所だったという。戦後、都営アパートなどが次々に建てられ、当時の面影はない。
小滝橋に戻る交差点の近くの道の脇に、延命地蔵尊が祀られている。地蔵尊の台座には正徳元年(1711)、隣の宝筺印塔には宝永3年(1706)の日付が刻まれている。

小滝橋交差点近くに立つ延命地蔵尊
道路わきに立っている。地蔵尊の台座には正徳元年(1711)、隣の宝筺印塔には宝永3年(1706)と刻まれている

西戸山遺跡碑の立つあたりの様子
西戸山社会教育館の入口脇に小さな碑が立っている。このあたりは戸山台地の西の突端になるが民家やアパートなどが建ち並び、遺跡のあった環境はまったく見られない

神田川に戻り先を続ける。左岸下流の橋の近くに「小滝橋の由来」の説明板が立っている。これによると、かつてこの橋の下に小さな堰があり、そこに水が流れて小さな滝になっていたことから名づけられたという。現在は、その痕跡はまったくない。川の両側には、神田上水公園よりは本数は少なくなるが、川に沿って桜並木が続いている。左岸を少し行くとやがて、落合水再生センター(旧落合処理場)の施設が見えてくる。歩道から見るだけでは何の施設か分からないので、歩道脇に設けられた階段を上って施設の上に出てみる。上から見ると、白い屋根の建物が広がっているのが見える。さらにその先には屋根と同じ高さで、広いグラウンドや公園などが設けられている。
左岸付近一帯は東京都下水道局の下水処理場であるが、環境に配意して処理場をすべて屋根で覆い、さらにその一部を「落合中央公園」として開放しているのである。

落合水再生センター施設
処理場施設は悪臭などを防ぐためすべて覆われ、上部は落合中央公園などとして開放されている。川辺から公園までは階段と陸橋が設けられている

久保前橋より下流方向を望む
左岸一帯は「落合水再生センター」(旧落合処理場)となっている。川べりには桜並木が続いている

落合水再生センターは南側の敷地を落合中央公園として活用し、北側は「せせらぎの里公苑」として活用されている。この公苑には川沿いの歩道から入ることができる。この公苑の池の水は、この処理場で高度処理された水を使用し、子どもたちの水遊びOKという。この公苑の中に施設全体の説明板が建てられているので紹介しよう。説明板に描かれた処理範囲図を見ると、我が家のある笹塚地区もこの処理場のお世話になっているようだ。

落合水再生センターの概要
(1)所在地 新宿区上落合1丁目2番40号
(2)創設   昭和39年3月
(3)敷地面積 84,280㎡
          (落合中央公園 21,000㎡)
          (せせらぎの里公苑 7,700㎡)
(4)設置目的 区部のうち、中野区の大部分並びに杉並、新宿、世田谷、渋谷、豊島、
         練馬各区の一部地域からの下水を処理し、神田川へ放流。
(5)処理能力 晴天時 45万立方メートル/日

せせらぎの里公苑
水再生センターの北側に設けられた公園。高度処理された水を中心に親水公園として子どもたちの遊びの場になる

落合中央公園
下水処理施設の上に造られた広い公園。グランド、テニスコート、憩いの広場などとして市民に親しまれている

水再生センターの裏門近くの橋が久保前橋、その先のせせらぎの里公苑入口付近の橋がせせらぎ橋である。せせらぎ橋から下流方向を眺めると左手に大きな口が開いているのが見える。近くによってよく見ると「高田馬場分水路」と大きく書いてある。神田川の増水時にはここから分流して洪水を防ぐという役割を持っているようだ。ただし、神田川とこの分水路の間にはコンクリートの仕切りがあり、増水でこの仕切り板を越えた水だけが分流する仕組みになっている。つまり、平常時は神田川の水はこの分水路を流れていない。
しかし、さらに分水路に近づき中を覗き込むと、ゴーゴーという音とともにかなりの水量がこの分水路に流れ込んでいるのが分かる。つまり、先ほどの水再生センターで再生した(処理された)水がここでこの分水路に流れ込んでいるのだ。あたりには処理水特有の臭気も漂う。
昭和39年にこの落合処理場が完成する前は、各家庭などで排出される下水はそのまま神田川をはじめとする各河川に流されていた。都市化が進むとともに、これらの河川はなかばドブ川化していったのである。この処理場の完成によって河川のさらなる水質悪化は防止され、やがて現在見るような清流が戻ったといえるのだろう。その意味ではこの処理場の役割は大変大きい。

高田馬場分水路の様子(新堀橋付近)
分水路と神田川の間にはコンクリートの仕切りがあり、平常時には分流していない。近くから中を覗くと処理場からの水が流れ込んでいるのが分かる

せせらぎ橋より下流方向を望む
左手に大きな開口部が見える。高田馬場分水路である。神田川はこのあたりでほぼ直角に向きを変え東に向かう
増水時には、水はその曲がり角で分水路に流入する仕組みだ

落合という地名は、もともと神田川と妙正寺川が落合う(合流する)地点ということで名づけられたらしい。明治末期のこのあたりの地図を見ると、神田川は幾重にも折れ曲がりながら今と同じように直角に向きを変えている。ちょうどその向きを変えるあたりで妙正寺川が合流していたのである。地形からも想像がつくように、このあたりでは大雨が降るといつも水があふれた。明治以降の河川改修工事では、まず蛇行部分をまっすぐにし、その後、川を新に掘る(分水する)ことにより洪水はなくなった。
分水路は地下に入ってしまうのでその後の行き先が分からなくなるのだが、もう少し先を追ってみよう。新堀橋を渡って北に少し行くと西武新宿線の踏切があり、そのすぐ先に妙正寺川が流れている。川沿いの道を下流に向かって歩くと、辰巳橋がある。この橋から下流を眺めると、妙正寺川は少し先で暗渠になってしまうことが分かる。
次にこの暗渠になる部分の上から上流の辰巳橋方面を眺めてみよう。左手に大きな口が開き、水が勢いよく流れ出しているのが見える。つまり、先ほどの高田馬場分水路はここに出ているのだ。平常時流れている水は、もちろん先ほど見た処理水である。妙正寺川はここで高田馬場分水路と合流し、暗渠部分を流れた後、さらに下流で神田川と合流することになる。

暗渠口上から妙正寺川上流方向を望む
左手から高田馬場分水路を流れてきた処理水が妙正寺川に合流している。流れ込む処理水はかなりの量である

妙正寺川の辰巳橋より下流方向を望む
少し先で妙正寺川は暗渠になってしまうことがわかる。暗渠までの間はかなりの段差があり、人工的に長いスロープが設けられている

これまで見てきた落合周辺の神田川、妙正寺川、高田馬場分水路の関係を図で表すと下図のようになる。
妙正寺川の辰巳橋まで歩いたので、少し近辺を散歩してみよう。辰巳橋を渡ってそのまままっすぐ行くと新目白通りにぶつかる。近くに陸橋があるので、これを渡ると薬王院の案内板がある。その少し先に山門があり、脇の大きな石標には「東長谷寺 瑠璃山薬王院」と刻まれている。薬王院は真言宗豊山派の寺院で、奈良の長谷寺の末寺にあたることから「東長谷寺」とも呼ばれる。本殿は少し高い場所に建っており、本殿までの斜面を利用して牡丹が植えられ、5月の開花時期にはたくさんの人が訪れる。

薬王院本殿と庭園
本殿は高い場所にあり、参道脇の斜面を利用してたくさんの牡丹が植えられている。開花時期には多くの人が訪れる

薬王院山門
脇に大きな石標があり、「東長谷寺 瑠璃山薬王院」と刻まれている。訪れたのは2月下旬で、ちょうど梅の花が咲いていた

薬王院をあとに新目白通りを高田馬場方面に少し行くと、左の道路わきに氷川神社の鳥居が立っている。この神社はスサノオノミコトの妻の稲田姫命を祀っている。スサノオノミコトを祀った近くの高田氷川神社とあわせて夫婦の宮と称したという。
氷川神社の正面の鳥居を出て、左に曲がり神社に沿って歩いてゆくと「七曲坂」の標識が見える。江戸名所図会にも記載されており、古くは源頼朝が近在に陣を張ったとき敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある。

七曲坂
簡単な説明がついた標識が立っている
源頼朝が開かせたという伝説もあるという

氷川神社
この下落合の氷川神社は、祭神の関係から高田氷川神社と合わせて夫婦の宮と呼ばれるという

七曲坂を登って行くと、途中にベンチが備え付けられた休憩スペースがある。ここを右に曲がりまっすぐ行くと、その突き当たりが「おとめ山公園」になっている。このあたり一帯は、江戸時代には将軍の鷹狩場とされ、一般人は狩猟禁止というので、「御留山」と呼ばれた。
明治以降、下落合のこの一帯の山は東側が近衛家、西側が相馬家の所有となり、二つの大きな屋敷ができた。現在の「おとめ山公園」は、相馬屋敷の庭園だった部分が残されたものである。相馬家はもと福島・相馬地方の殿様だった家で、その屋敷は現在の公園の約3倍もあった広大なものだった。戦後、分割売却され、庭園もあわや取り壊しというところで地元の保存運動によって救われ、昭和44年に新宿区立おとめ山公園となった。
公園の前の通りは「相馬坂」と呼ばれる。公園の入口を入ると遊歩道が続いている。まっすぐに進んでゆくと、上の池、下の池という細長い池が連なっているのが見える。さらに進むと管理棟があり、ここに案内図などのパンフレットが置いてある。ここからいったん公園を出て自動車道を渡ると、分園のような形で公園が続いている。こちらには池を中心に、あずまやなどがある。
再び本園に戻り、別ルートを歩く。展望台があるので上ってみたが、周囲に大きな建物もあり、あまり展望はよくない。高台なので昔はここからの眺めはすばらしかったのだろう。帰路は相馬坂を下って新目白通りに出る。

分園の弁天池とあずまや
自動車道路を隔てて分園が続いている。こちらには大きな弁天池があり、そのほとりにあずまやが建っている

おとめ山公園下の池付近
公園の入口から遊歩道を下ってゆくと、上の池、下の池がある。遊歩道にはいくつかのバリエーションがある

氷川神社前の横断歩道で新目白通りを渡り、西武線の踏切を越えてさらにまっすぐ行くと神田川の宮田橋に出る。
神田川は新堀橋の後、瀧澤橋になるが、この橋から下流は川沿いの道はなくなる。先ほどの地図で見たように、瀧澤橋の後、落合橋、宮田橋と続く。宮田橋からは迂回路を通って次の田島橋に出る。
田島橋の脇に「田島橋の由来」という説明板が立っている。説明文の脇に「江戸名所図会」の「落合惣図」が描かれていたので、これも掲載させていただく。

田島橋の由来 (説明板より)
江戸時代、鼠山(現豊島区)に下屋敷があった安藤但馬の守がよくこの橋を渡ったため、「但馬」を「田島」としてこの橋の名がついたといわれています。
この橋は江戸時代の初めには既に架けられていたようで、初めは仮橋だったものを後に土橋に改めたと伝えられています。
この橋の上流には犀が淵という深い淵があって、江戸時代には高田十二景といわれる月の名所の一つとして知られていたそうです。

江戸名所図会には落合周辺を描いたものに「落合蛍」「落合一枚岩」などがあるが、これはその惣図として全体を描いたものである。
神田川(当時は神田上水)が左下から蛇行しながら流れ、ちょうど中央あたりで、左から流れてきた妙正寺川と合流している。合流地点は現在の落合橋の少し上流付近だという。ちょうどその合流点付近に「一枚板」、右端付近に「田島橋」の文字が見える。また、山の手前のほうには「薬王院」「氷川」などの文字も見える。
土地の基本的な形状は変わらないのだろうが、河川の改修、宅地化などにより、まさに隔世の感がある。

江戸名所図会のうち「落合惣図」 (説明板より転載)

田島橋より下流方向を望む
手前に見えるのが清水川橋、奥の高架鉄橋はJR山手線と西武新宿線のもの

宮田橋より下流方向を望む
川の両岸には東京富士大学のキャンパスが建ち並んでいる。田島橋の手前に大学の南北を結ぶ渡り廊下が川を跨いで設けられている

田島橋からは、さかえ通り商店街を行けば早稲田通りに出、高田馬場駅はすぐ目の前である。

神田上水公園の様子
遊歩道の幅は広く、道の両側に桜並木が続く。桜の時期には訪れる人も多い

大東橋から下流方向を望む
左側が中野区、右側が新宿区となる。ここから見ると両岸から桜の枝が川に張り出している

早稲田通り

なお、瀧澤橋から下流には川沿いの歩道はなくなる

新堀橋

辰巳橋

落合周辺の様子
1.川の緑の部分は暗渠。妙正寺川は高田馬場分水路と合流し、新目白通りの下を暗渠で流れる。
2.高田馬場分水路には落合水再生センターで処理された水が放流されている。
3.新堀川より下流の橋の名前は次のとおり。

JR山手線

せせらぎ公苑

神田川

高田馬場駅

せせらぎ橋

久保前橋

高田馬場分水路、妙正寺川(暗渠)

薬王院

おとめ山公園

氷川神社

新目白通り

妙正寺川

小滝橋

落合中央公園

(落合水再生
センター)

早稲田通り

④田島橋
⑤清水川橋

①瀧澤橋
②落合橋
③宮田橋