南蔵院
真言宗豊山派寺院。永和2年(1376)開基と伝えられる。三遊亭円朝作の落語「乳房榎」の舞台として知られている

氷川神社
江戸時代には「氷川大明神」と呼ばれ、下高田村の総鎮守「として信仰を集めていた。下落合の氷川神社と合わせて「夫婦の宮」とも呼ばれたという
神田川を歩く

高田馬場駅〜高田橋、妙正寺川合流点〜面影橋、南蔵院〜駒塚橋、芭蕉庵〜大滝橋、大洗堰跡、江戸川公園〜地下鉄江戸川橋駅  約4.5Km

高田馬場から江戸川橋まで歩く。途中の面影橋、駒塚橋付近には名所旧跡も多い。また、大滝橋付近には江戸時代、堰が設けられ、その水が神田方面へ配水された。神田川がかつて「神田上水」と呼ばれたのはこのためである。

高田馬場駅を降り、早稲田通りを渡って少し先で左に曲がれば、神田川が流れている。神田川はJRと西武線の高架下を流れるが、2008年2月現在、この部分の河川改修工事をやっていた。鉄道橋梁がネックになってこれまで改修できずに残されていた部分の工事をいよいよ始めたのだ。工事の説明板を見ると、西武線橋梁の架け替え工事を伴うようだ。
工事個所に最も近いのは神高橋で、これから下流の河川改修工事はすべて完了している。川の両側には歩道があり、左岸の川沿いにはところどころにテラスが設けられている。このあたりには各種専門学校や雑居ビルが多いので、昼食時にはテラスに座って談笑する学生や会社員の姿も見られる。
神高橋のあと、高塚橋、戸田平橋、源水橋と続き、高田橋に出る。この橋は交通量の多い新目白通りを渡している。

新目白通りはすぐ先で明治通りと交差する。交通量の多い交差点を横断するとすぐに高戸橋がある。高戸橋は明治通りを渡している。高戸橋から上流の高田橋を眺めると、橋の下で大きな暗渠が口をあけているのが見える。これは上流で地下に潜った妙正寺川と高田馬場分水路である。新目白通りの下を暗渠で流れていた二つの川はここで神田川に合流するのだ。
明治通りに並行して都電荒川線が走っている。この荒川線は、東京都内で唯一残っている路面電車である。池袋方面から走ってきた電車は、神田川を越えると直角に向きを変え、新目白通りに入り、面影橋を経て終点早稲田に至る。

神田川橋梁を渡る都電荒川線
高戸橋の隣に都電の橋梁が架かっている。明治通りと並行して走ってきた電車は、橋を渡ると90度向きを変え、新目白通りを早稲田方面に向かう
後方の高いビルはサンシャイン60

高戸橋より上流の高田橋方面を望む
高田橋付近で新目白通りの下を流れていた妙正寺川と高田馬場分水路が顔を出す。ここで神田川と合流するのだ

都電の線路を渡り、再び神田川沿いの遊歩道を歩く。両岸には桜並木が続いている。右岸を歩いてゆくと「神田川の魚道」という説明板が立っているので紹介しよう。付近は植え込みになっているが、柵の間から川を覗くと確かに大きな段差があり、魚道が設けられている。説明板によれば、このあたりでは川床に3m近い段差があるのだ。

神田川の魚道 (説明板より)
以前このあたりには、川幅全体に川の流れを弱めるための段差(落差工:1mほどの落差が3段)が設けてありました。これは治水の観点から必要なものでしたが、一方で魚の遡上の妨げにもなっていました。
東京都は、河川改修に合わせてこうした段差を解消し、魚などの移動経路と生息空間としての機能を合わせ持つ魚道を、平成9年度に設置しました。
一度は姿を消していたアユが、再び神田川で確認されるようになったのは、平成4年頃からです。
この魚道の設置によって、上流側の高田橋付近までアユの遡上が確認されるようになりました。

川の大きな段差と魚道
奥のほうの多くの段差を設けた部分が魚道。一つあたりの段差を小さくすることによって魚が上りやすいようにしている

高戸橋と曙橋の間の遊歩道
川沿いに桜並木とツツジの植え込みが続いている。この付近に「神田川の魚道」の説明板がある

ところで、神田川はJR山手線、西武線の線路下を過ぎたあたりから新宿区と豊島区の区界付近を流れるようになる。しかし、川が境界ではなく、かなりのでっこみ、ひっこみがある。川の流れる場所が新宿区になったり、豊島区になったりするのだ。少し先の新宿区と文京区の区界についても同じである。これは、かつて神田川の流れをもって境界と定めていたものが、その後、川の改修により川はすっきりと直線化したが、区界はそのままに残された結果である。このことは、このあたりが近代の河川改修を行う前までは蛇行を繰り返していたことを示している。
それでは、なぜこのあたりの神田川は蛇行が多く見られたのだろうか。それには気候の温暖化、寒冷化に伴う海の進出(海進)、後退(海退)が影響しているという。(「江戸・東京の川と水辺の事典 」鈴木理生 編著 柏書房による)

川の蛇行について
通常、川は海面に近くなり流れが緩やかになると蛇行したり、洲をつくったりするようになる。神田川も本来ならばもっと海水面に近いところで蛇行がおきるはずだが、現在の河流の長さで見ても河口から約10Kmも遡った中流域で見られる。今から約1万年くらい前には、現在の関東平野の大部分に海が入り込んでいた。この海水面の上昇はそれまでの川の勾配を緩くさせる結果になった。これにより、神田川でも中流域に蛇行が見られるのである。また、その後海が後退しているのでその部分に段差ができることにもなる。

人工的な勾配変化の影響
川が蛇行していると、大雨のとき水があふれやすくなる。このような「洪水常襲河川」の水害を防ぐため、水はけをよくする目的で100年がかりで川の蛇行をカットしつづけてきた。その結果、現在では直線的なスマートな姿に変わっているのである。蛇行した川の流れを直線にするということは、それだけ勾配を急にすることである。その結果、蛇行部を改修した下流部では、下方侵食力が働き、川がだんだんと「沈んでゆく」現象をひき起こす。これを避けるため、人工的に段差を設け、その部分の川床を補強したのが、先ほど見た写真のような部分である。

少々話がそれたので、川辺の散歩に戻ろう。高戸橋の次は曙橋。この橋の上から先ほど見た大きな段差の様子がよく見える。また、橋のすぐ下に大きな岩が現れているのが見える。かつて、この橋から上流部にかけては川底から大亀の甲羅のような岩の露出が数箇所で見られ、それぞれ「高田一枚岩」「戸塚一枚岩」「落合一枚岩」などと呼ばれていた。今、橋の下に見える岩がそれかどうかはわからないが、もしかしたらその大岩の名残かもしれないと思った。なお、現在はこの橋の下流にしばらくの間、岩盤の露出個所が続いている。

曙橋の下に現れた岩盤
曙橋から下流しばらくの間、川床にこのような岩盤がしばしば現れる

曙橋から上流方向を望む
先ほど見た魚道の設けられた、大きな段差のある部分の様子がよく見える

曙橋からさらに川沿いに歩いてゆくと、神田川は次第に新目白通りと接近し、面影橋付近で接してしまう。川の遊歩道が新目白通りの歩道と一緒になってしまうのである。橋のすぐ近くに都電の面影橋停留所がある。橋の脇に「面影橋の由来」の説明板が立っている。また、説明の横に「江戸名所図会」の「姿見の橋」が描かれているので、これも掲載させていただく。

面影橋の由来 (説明板より)
この橋は、目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。
橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負
(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げたときにうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。

面影橋を渡ってすぐのオリジン電気の入口の横に「山吹の里」の碑と説明板が立っているので見てみよう。山吹の里がどの場所にあたるのか、特定は困難なようだが、町名にまで採用しているのは、この付近の新宿区山吹町のみである。

「山吹の里」の碑 (説明板より)
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩に出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとしたとき、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹のみの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図会」(正徳二年、1712)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。

「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地が集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。

江戸名所図会より「姿見の橋」(面影橋)
手前の土橋が面影橋。右上に南蔵院の文字も見える。土橋の上に差し掛かっている人々は、遠くに見える南蔵院へお参りするようだ。この道は古く鎌倉街道といわれた道である

面影橋付近の様子
神田川はこの付近で新目白通りと接する。すぐ近くに都電の面影橋停留所がある
また、橋の脇に右の図が描かれた説明板が立っている

面影橋から北に2、3分歩くと、南蔵院と氷川神社が道をはさんで向かい合って建っている。氷川神社の創建は、武蔵の国一宮の氷川神社(埼玉県大宮市)を当地に分霊したことに始まるといわれ、平安時代の歌人、在原業平も参拝したと伝えられる。主神はスサノオノミコトであることから、俗に「男体の宮」といわれ、稲田姫命を主神とする落合村の「女体の宮」と合わせて、「夫婦の宮」と呼ばれていたという。
南蔵院は真言宗豊山派の寺院で、室町時代永和二年(1376)に開基したという。先程の江戸名所図会にもその名が記されていたお寺である。門の右手に「名作怪談乳房榎ゆかりの地」という看板が立っている。

南蔵院からさらに北に少し行くと金乗院(こんじょういん)がある。お寺までの電柱に案内標示が出ているので、それに従ってゆけばすぐである。この道は「宿坂道」と呼ばれており、かつての鎌倉街道の道筋だったようだ。お寺の山門の脇に説明板が立っている。

宿坂道 (説明板より)
中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこのあたりにありました。「江戸名所図会」には、金乗院とともに「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の裏門のあたりにわずかな平地があり、立丁場(たっちょうば)と呼ばれ、昔関所があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
また、金子直徳著「若葉の梢」(寛政10年・1789)によれば、宿坂の関は関東お留の関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。

江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。

金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創と伝えられる。この寺院の境内に目白不動堂が建てられている。この不動堂は、もと関口駒井町(文京区)にあったが、昭和20年の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像をこの場所に移したという。
また、金乗院の前を右に曲がってすぐのところには根性院がある。はじめ神田にあったが、数度の移転を繰り返して明治35年にこの地に落ち着いたという。田安徳川家の下屋敷跡であったこのあたりは、かつて広大な庭園や湧水などがあり、神田川から金乗院、根性院を回る散策コースは、四季折々の自然を楽しむ人々でにぎわったと伝えられる。しかし戦災ですべて焼失し、その景観は失われた。

根性院山門
付近は田安徳川家の下屋敷跡で、緑豊な環境だったというが現在では見る影も無い

金乗院本堂
天正年間(1573〜92)の創建と伝えられるが、昭和20年の戦災で焼失し、現在の本堂は昭和46年に再建された

宿坂道、金乗院山門、目白不動堂
宿坂道に沿って金乗院の山門が建ち、境内の一段高くなった場所に目白不動堂が建っている

同じ道を通って面影橋まで戻る。宿坂道は新目白通りを渡った先まで続いているので、この道をもう少し進んでみよう。道がゆるい登り坂になるあたりの右側に朱塗りの大きな山門が建っている。これは、高田の七面堂として知られた亮朝院である。身延山奥の院七面大明神を勧請したもので、寛文11年(1671)、戸山からこの地へ移ってきた。正面の建物が七面堂で、その手前に石造の一対の金剛力士像が立っている。これはいわゆる仁王像であるが、普通よく見られる山門内に納められた木造のものとは異なり、参詣者が手に触れることのできる珍しい例という。
再び面影橋に戻る。新目白通りを渡る横断歩道のすぐ脇に都電荒川線の面影橋停留所がある。この次が終点の早稲田、逆方向に乗れば鬼子母神前、雑司ヶ谷などに出ることができる。

都電荒川線、面影橋停留所
都電荒川線は東京都内に残る唯一の路面電車である。早稲田〜三ノ輪間に全部で30の駅があり、全線均一で160円である

亮朝院七面堂
手前に並ぶ一対の石造の金剛力士像は仁王像であるが、参詣者が手で触れることができる、珍しいものである

面影橋から再び神田川に沿って歩き始める。神田川は次の三島橋付近までは新目白通りと接しているが、橋を過ぎたあたりで別れ、静かな遊歩道に戻る。三島橋の後、仲之橋、豊橋と続く。このあたりは前に述べたように豊島区と新宿区の境界が入り組んだ地域である。かつて神田川が蛇行しており、そのとおりに区界が決められたためである。現在の神田川はまっすぐに改修されたため食い違いが生じている。
この付近からしばらくの間、川床を見ると岩盤が剥き出しになったような形状をしている。川の沈下を防ぐために人工的に造ったのか、自然の岩盤がそのまま露出しているのかちょっと見たところでは見分けがつかない。

橋の上から北側(左岸)を眺めると、胸突坂というかなり急な道がまっすぐにのびており、その左側に小さな水神社、そして右側には関口芭蕉庵の鬱蒼とした林が続いている。この付近は神田川流域の中でも最も見どころの多い地域である。
まず,水神社に寄ってみよう。江戸時代の書物には、『上水開けてより関口水門の守護神なり』とあり、上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。神社の横から「胸突坂」に出られるので、この坂を登ってみよう。自分の胸を突くようにしなければ登れないことからつけられた名前である。現在では階段と手すりが設けられ、途中にはベンチのある休憩スペースもある。この坂の上左手には肥後熊本の大名細川家の歴史資料や文化財を展示する永青文庫があるが、この地は細川家の下屋敷跡である。(永青文庫、入館料600円)

豊橋の次は駒塚橋である。橋の上から下流方向を眺めると、川幅はかなり広く、かつ深いことが分かる。明治時代に描かれた風俗画を見ても、左岸の目白台の椿山、芭蕉庵のあたりはほとんど変わっていない。ただ、川自体の姿が大きく変わっているのには驚く。江戸時代、この橋の少し下流の大滝橋付近に大きな堰が設けられ、そのせき止めた水を上水として神田、日本橋方面に配水していた。

胸突坂の様子
あまりに急なので、現在は階段と手すりが設けられ、途中には休憩スペースもある。左手一帯は細川家の下屋敷となっていた

駒塚橋より水神社、胸突坂方面を望む
左の白い鳥居と上の小さな社が水神社、その脇の急な坂が胸突坂、右の塀の内側が関口芭蕉庵である

見学後坂を下り、駒塚橋まで戻る。ここから左手、神田川に沿って上流方向に少し歩くと文京区立新江戸川公園がある。この公園は江戸時代中期以降旗本の邸地となり、その後二、三転し、肥後の細川家の邸地となった。現在は泉水を利用した回遊式庭園として公開されている。

公園内の泉水庭園
この場所は、幕末に細川家の邸地となり、泉水を利用した回遊式庭園が造られた

文京区立新江戸川公園入口
開園時間は午前9時から午後5時まで。入場は午後4時30分まで。入場無料

ふたたび駒塚橋に戻る。橋から下流方向少し先に立派な門が見える。これは関口芭蕉庵の門である。門の脇に説明板が立っているが、ここから中には入れない。中に入るためには胸突坂まで戻り、石段の手前右側に通用門があるので、これを開けて入る。何の表示も無く、中も見えないので入ってよいのかどうか迷うが、開園日なら戸を開けて自由に入ってよい。中は鬱蒼とした木立に囲まれ、池の周りの遊歩道には句碑や歌碑が立てられ、静かな環境が残されている。園地の一番奥の一段高い場所に芭蕉堂が建っている。

芭蕉堂
園内の一番奥、一段高くなった場所に建っている。享保11年(1726)、芭蕉の33回忌にあたり、芭蕉の木像を祀るために建てられた。
その後、去来、其角、嵐雪、丈草の像も堂に安置された。建物は、昭和20年の戦災で焼失したが、その後再建された

関口芭蕉庵門
立派な門だが、ここからは入れないので、胸突坂横の通用門から中に入る。松尾芭蕉は延宝5年から7年まで(1677〜1680)、神田川の改修工事に参画し、この場所に住んだといわれる。

駒塚橋から下流に向かって歩くと、左に芭蕉庵と椿山荘の長い塀が川沿いに続いている。椿山荘は現在は結婚式場となっているが、明治時代には山県有朋の別荘となっていたものである。広大な敷地には、別荘当時の遺構なども多く残されている。川沿いの遊歩道から自由に中に入ることができる。
さらに少し歩くと、歩道橋の大滝橋が見えてくる。江戸時代、この橋の付近に大きな堰が設けられ、大洗堰と呼ばれていた。ここでせき止められた水は、神田川とは別の水路を通って神田、日本橋方面に配水され、飲料水などの上水として利用された。、
大滝橋から江戸川橋の間は、江戸川公園として整備されており、桜の並木が続いている。桜の時期にはこのあたりは大変な人出になる。ただし、桜のある公園は左岸のみで、右岸は一般道路や高速道路が通る殺風景な風景である。
なお、昭和41年に河川名が改称される前は、大洗堰のあった大滝橋付近までが「神田上水」と呼ばれ、それから下流は「江戸川」と呼ばれていた。その名残で公園の名前も江戸川公園となっているのである。

大滝橋付近の江戸川公園の様子
川沿いにたくさんの桜があり、ベンチ、あずまやなどの休憩設備も多い。交通の便もよいので、花見の時期には大変な人出となる

大滝橋から下流方向を望む
かつて、このあたりに大洗堰が設けられ、せき止められた水は別水路で導水され、神田、日本橋方面の飲料水などに利用された

現在、大滝橋の付近に大洗堰の遺跡はほとんど残っていないが、唯一、神田上水取水口の石柱が残されている。大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落(かくおとし)」と呼ばれた板をはめ込むための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年江戸川の改修により撤去されたものをこの場所に移した。
江戸川公園は広い目白通りにぶつかって終わりとなる。神田川にかけられた江戸川橋を渡れば地下鉄有楽町線の江戸川橋駅はすぐである。今回はここまでにしよう。

高田橋
この橋は交通量の多い新目白通りを渡す。神田川に対して斜めに架かっている

高塚橋より下流方向を望む
橋の近くにテラスが設けられている。階段がベンチのようになっているので、腰掛けて弁当を食べている人もいた

豊橋より神田川上流方向を望む
川はまっすぐで、川床が岩盤のように見える。川の沈下を防ぐための補強なのだろうか。この付近一帯に見られる

豊橋
この橋の南側すぐのところが、都電荒川線の終点早稲田になる。ここから新目白通りを渡ってまっすぐ南方向に行けば、早稲田大学の大隈講堂方面に出る

目白台下駒塚橋の景(山本松谷画))
明治40年1月に「風俗画報」の「新撰東京名所図会」の1枚として掲載されたもの。左の写真とほぼ同じ場所を描いたもので、左岸の風景はほとんど変わらないが、川自体は大きく変化している

駒塚橋より椿山荘、芭蕉庵方面を望む
左岸には芭蕉庵、椿山荘などの鬱蒼とした木立が広がっている。このあたりには昔の面影が色濃く残っている
ただ、川自体は昔に比べ大きく「沈んでいる」ことが分かる

江戸川橋
この橋を渡る目白通りは交通量の多い通りである。橋を渡ってすぐ先に地下鉄有楽町線江戸川橋駅への入口がある

神田上水取水口の石柱
大洗堰の唯一の遺跡として残されているもの。この石柱の間に板をはめ込み、上水の流水量を調節したという