神田川を歩く

飯田橋駅〜小石川後楽園〜小石川橋、日本橋川分岐点〜三崎稲荷神社〜水道橋〜神田上水懸樋跡〜東京都水道歴史館〜お茶の水橋、御茶ノ水駅  約4Km   

水戸屋敷跡である小石川後楽園を見学したあと、神田川に沿って御茶ノ水駅まで歩く。距離は短いが見どころは多い。小石川橋付近で日本橋川が分流するが、この川は神田川が平川と呼ばれていた頃の名残の川である。この川についても日を改めて歩いてみた。

前回、巻石通りの終着点である水戸屋敷跡(小石川後楽園)まで行けなかったので、今回はその見学からはじめる。
飯田橋駅から歩道橋を渡って外堀通りを水道橋方向に進めば、案内表示が出ている。中に入る前に築地塀に沿って少し先まで歩いてみよう。塀の角あたりに小さな公園があるが、このあたりで神田上水は水戸屋敷の中に取り込まれたようだ。
入口付近に小石川後楽園の説明板が立っている。小石川後楽園は旧水戸徳川家の上屋敷の庭園で、林泉美に富む回遊式庭園である。 江戸時代初め、徳川御三家の一つであった水戸家の祖徳川頼房は、寛永6年(1629)三代将軍家光から与えられたこの邸地に回遊式庭園を築造した。本園は昭和27年文化財保護法に基づく特別史跡及び特別名勝に指定された。

私は昨年の晩秋にこの庭園を訪れている。池の周囲の紅葉は見事なもので、都内に残る旧大名庭園のうちでは最高のものだと思うが、そのときは紅葉に目が向けられて神田上水跡にはまったく気がつかなかった。今回は改めて庭園の中の神田上水の跡を追ってみる。先ほど塀の外から見た巻石通りの延長線上と思われる地点から水路が始まっている。緩やかな曲線を描きながら庭内を流れ、再び築地塀に突き当たるまでそれほど長い距離ではないが、昔の面影を色濃く残している。上水跡にかかる円月橋も遺跡として残されている。かつての神田上水は、まさにこのような姿だったのだろう。

小石川後楽園を出て外堀通りを歩く。神田川は外堀通りと並行して流れ、その上には高速道路が覆いかぶさるように走っている。外堀通りの歩道を歩いてゆくと途中に「旧市兵衛河岸」の説明板が立っている。かつてこのあたりには河岸があり、市兵衛河岸と呼ばれていた。昭和39年まではこの付近の町名にもなっていた。
説明板の立っているところから少し行くと小石川橋がある。この橋から下流方向を望むと、すぐ先で日本橋川が右に分岐しているのが見える。この川は、かつて神田川が平川と呼ばれた頃の名残の川である。江戸時代以前の神田川(当時は平川と呼ばれていた)は、ほぼこの地点から右に曲がり、直接江戸湾に注いでいた。その後江戸の発展とともに江戸城や市街地を水害から守るため、本郷台地を開削し江戸城や市街地を迂回する流れに変えた。これが現在の神田川である。旧平川と神田川の間は埋め立てられ、遮断されたが明治になって復活して外濠川となり、その後日本橋川と改称された。
日本橋川は都心の一ツ橋、神田、日本橋などを経て隅田川に注いでいる。現在は、ほとんどすべてが高速道路の下という暗い川だが、様々な歴史を持った川である。私は改めてこの川を日本橋まで歩いてみようと思っている。
高速道路は日本橋川沿いに移るため、神田川には明るい川面が戻ってくる。

後楽橋からさらに神田川右岸の一般道路を行く。神田川との間にはJR水道橋駅があり、駅に沿って歩いてゆくと三崎稲荷神社がある。この神社は鎌倉時代初期に創建された古社で、江戸時代には三代将軍家光の崇敬を受け、諸大名には参勤交代での江戸入りの際と国元に帰る際に必ず参詣させたといい、現在も旅行の神様としてこの社を訪れる人が少なくないという。
JR水道橋駅東口のすぐ前に架かる橋が水道橋である。この橋は広い白山通りを渡すので橋の幅が大変広い。橋の欄干に江戸名所図会の「お茶の水」を刻んだ銅版がはめ込まれている。この図には神田川に渡した上水の懸樋が描かれている。橋の名前の由来は、この橋の少し下流に神田上水の懸樋(かけひ)があったためという。

水道橋
水道橋駅の東口に接してかかる橋。白山通りを渡す大きな橋である

三崎稲荷神社
水道橋駅南側すぐのところにある。境内は狭いが由緒ある古社である

水道橋から先の外堀通りは次第に登り坂になってゆく。これから先は本郷台と呼ばれる台地となるためかつての平川は右に流れを変えていた。江戸時代になり市街地が発展してくると、平川のもたらす水害を避けるため、この本郷台を切り開いて江戸城や市街地を通さずに直接隅田川に放流する工事が実施された。この工事は慶長8年(1603)に仙台の伊達家により行われたことから、当時は仙台掘と呼ばれた。放水路が完成したあとはかつての平川は埋め立てられ、さらに水道橋付近ではあふれた水が江戸城方面に流れ込まないよう、南岸べりに片側だけ高い土手が築かれた。つまり、水道橋付近の北側(東京ドームなどのあるあたり)は、洪水時の水がたまる「遊水地」的な役割をもたされていた。
水道橋の上から下流方向を眺めると、左岸に大きな口が開いているのが見える。これはお茶の水分水路である。現在では、神田川の治水事業の一つとして「分水」というjことが行われている。川と並行してもう一本の川を掘り、川の幅を広げたと同じような効果をもたせるものである。これまでに、高田分水路、江戸川分水路、水道橋分水路などがあり、この場所には「お茶の水分水路」があるのだ。水道橋から外堀通りを少し行くと「神田川分水路事業 お茶の水分水路」と刻まれた大きな石碑が建っている。分水路による治水事業の完成記念にこの場所に碑が建てられたものだ。

円月橋
庭内の神田上水にかけられた橋。橋が水面に写る形が満月になることからこの名がつけられたという

後楽園庭園内の神田上水跡
巻石通りの延長線上あたりから旧神田上水が昔のままの姿で残されている

巻石通りと小石川後楽園の築地塀
かつての神田上水は、このあたりから水戸屋敷の庭園に引き込まれた

前にも少し記したが、日本橋川と神田川(旧平川)の関係について、もう一度まとめておこう。

@神田川の古名は平川といった。家康の江戸入府以前、武蔵野台地を東へと流れてきた平川は、現在の地下鉄東西線竹橋駅付近で日比谷入江へと注いでいた。当時の江戸湾は日比谷入江として竹橋付近まで深く切れ込んでいたのである。

A慶長8年(1603)江戸城の目前に切れ込んだ日比谷入江を埋め立てるため、平川はその河口手前から本郷台地の南端に突き出た江戸前島を横切る流路に付け替えられた。その下流部に日本橋が架橋されたのもこの時期のことで、この流路がおおむね現在の日本橋川の原型といえるものである。

B元和6年(1620)になると、江戸城や埋立地に発展した市街地を水害から守るため、本郷台地を東西に貫く平川放水路(現神田川)が開削され、その東端部が旧石神井川と直結し、現在見られるような神田川下流部の流路が形成された。本郷台地の開削は仙台の伊達家が工事を担当したことから仙台掘の名で知られる。

C放水路(現神田川)の開削後、旧平川は分岐地点付近で埋め立てられ、完全に水の流れが遮断されていたが、明治33年に再び神田川と接続されて川の姿を取り戻し、外濠川と呼ばれるようになった。この川が昭和39年に日本橋川と改称された。

なお、「神田川下流の流路の変遷」についてはこちらが分かりやすいので、参照してみてください。

神田川の先を続ける。日本橋川に架かる新三崎橋を渡り神田川右岸に沿った一般道を進むと、すぐ先に後楽橋がある。この橋は水道橋駅西口に接し、東京ドームや遊園地方面へ向かう人の流れが大変多い場所である。ただ、現在はこの橋と平行して設けられている陸橋があり、これで川と外堀通りをいっぺんに渡れるので、そちらを通る人のほうが圧倒的に多い。
後楽橋から上流方向を望むと、大きなごみ運搬船がごみの積み込み作業をしているのが見える。この場所にごみの集積所があり、ごみ収集車で運び込まれたごみがここで運搬船に積み替えられ、神田川を下って処分場まで運ばれている。ごみ収集車の都心乗り入れを減らすために神田川は役に立っているのだ。

後楽橋より神田川上流方向を望む
すぐ近くでごみ運搬船がごみの積み込みをしているのが見える。
後方の橋は小石川橋

後楽橋
向こうのビルは水道橋の「黄色いビル」。この橋と並行して長い歩道橋があり、川と外堀通りをいっぺんに渡れるので、東京ドーム本面へ向かう人はほとんどそちらを通る

「お茶の水分水路」記念碑
分水路事業としてあるので、お茶の水分水路だけでなく、高田分水路、江戸川分水路、水道橋分水路すべての完成記念碑だろう

水道橋より下流方向を望む
左岸に大きく口を開けているのは、お茶の水分水路である。ここから昌平橋までの間、外堀通りの下をもう一本の川が掘られている

お茶の水分水路記念碑の少し先に「神田上水懸樋跡」碑が建っている。 江戸時代、この場所に木製の樋(とい)を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していた。明治34年(1901)に神田上水が廃止されるまでこの懸樋を通した水が供給されつづけていたわけだ。この辺りは江戸の名所で、江戸名所図会や広重の浮世絵などにも描かれている。
水道橋からお茶の水付近まで続く外堀通りの登り坂をお茶の水坂という。坂の頂上付近は木々が茂っていてなかなか川面を見通せないのだが、時折見せる川面を見下ろすとその高さを実感することができる。当時は人力だけによる掘削であり、工事の大変さがしのばれる。この開削工事は元和6年(1620)に完成したが、その後万治2年(1659)からは拡幅工事が行われ、河口部から外堀を経て牛込方面へ通じる船運が開通し、流域の市街化促進に大きな役割を果たした。

坂上の木々の間から神田川を望む
これだけの堀を人力で開削することの大変さを実感することができる

外堀通りお茶の水坂を登りきった付近
このさき順天堂大学病院、医科歯科大学病院などが建ち並んでいる

お茶の水橋の手前の順天堂信号で外堀通りを渡り、順天堂大学の間の路地を少し行くと左手に東京都水道歴史館がある。東京・江戸の上水道の歴史に関する博物館で一見の価値がある。建物は3階建てで、1階は近代水道、2階が江戸上水の展示室である。私はここには前にも一度来たことがあるが、今回は特に2階の江戸上水の展示をていねいに見ようと思っている。また、本館に隣接して本郷給水所公苑があり、こちらにも屋外展示物があるので、こちらも見学する予定である。
2階の江戸上水の展示では、まず、江戸上水史などのパネル展示のほか、発掘調査によって発見された木樋などの現物が豊富に展示されている。また、模型や人形などを使用した井戸端風景の再現など大変分かりやすく楽しい内容である。神田川の散歩には、この歴史館の見学をお勧めしたい。(9:30〜17:00 入館無料)

神田上水懸樋
水道橋付近の懸樋の模型

上水を導水する木樋
このような樋を地中に埋め導水していた。これは太いので幹線かもしれない

江戸時代の井戸端風景
上水の水が木樋などで井戸まで導水されている。水道といってもこのような形で共同使用されるものだった

お茶の水の図(安藤広重画)
将軍のお茶に供したほどの名井がこの辺にあったことから付近はお茶の水といわれた。神田上水の懸樋とその先に水道橋が見える

碑の建っている辺りの現在の様子

神田上水懸樋跡碑

歴史館を一通り見学し、建物の裏手に回ると本郷給水所公苑がある。ここには神田上水石樋が、実際に発掘されたとおりに展示されている。発掘現場は、先に見たお茶の水分水路記念碑のあったあたりで、外堀通りの下から発見されたという。水戸屋敷から懸樋まで導水する石樋で、かなりの長さがここに再現展示されている。

石樋内部の様子
水道本管であり、かなりの水量を通すことができる。漏水、防水にはいろいろと工夫しているようだ

神田上水石樋(再現展示全景)
外堀通りのお茶の水分水路記念碑付近で発掘された神田上水の石樋である

水道歴史館をじっくり見ていたら結構時間がたってしまった。御茶ノ水駅界隈を少し散歩しようと思っていたのだが、それはまた次の機会として、お茶の水橋からの風景を写真に収めてから帰宅の途についた。

お茶の水橋
この橋でJR線路、神田川を一跨ぎする

お茶の水橋と御茶ノ水駅
橋の南詰に接してJR御茶ノ水駅西口があり、北詰めは地下鉄丸の内線入口がある。後方のビルは東京医科歯科大学病院

日本橋川を歩く

神田川との分岐点〜三崎橋〜俎(まないた)橋〜一ツ橋〜神田橋〜常盤橋〜一石橋〜日本橋
  約3.5Km

飯田橋先の神田川と日本橋川の分岐点から日本橋まで歩く。日本橋川はかつて江戸・東京の中心部を貫いて、船運上重要な水路であった。しかし、現在はすべて首都高速道路の橋の下となり、日陰者の悲哀を味わっている感じだ。

日本橋川は神田川から分岐したあと、日本橋などを経て豊海橋先で隅田川に合流しているのだが、私は日本橋まで歩くことにした。川自体はすべて高速道路の下で、まったく面白くないので、興味の対象は専ら川にかかる橋と周辺の風景である。この川にかかる橋には日本橋をはじめ、それぞれに歴史のあるものが多い。
日本橋川に最初にかかる橋は三崎橋である。並行して新三崎橋もかかっている。これから先、右岸べりは歩道もよく整備されているので、こちらを歩く。この辺り右岸一帯には、しばらく前までJRの飯田橋貨物駅などがあったが、現在では再開発され立派なビルが建ち並んでいる。
再開発に際して大規模な発掘調査が行われ、飯田町遺跡と名付けられている。この辺りには讃岐高松藩上屋敷があった。付近の歩道脇に「上屋敷の土蔵跡」「上屋敷の庭園跡」の二つの説明板が立っている。

あいあい橋、新川橋までが再開発地域である。新川橋を越えると、左岸沿いの一般道路を歩くことになる。おおむね川べりの道があるが、川から少し離れる場合もある。堀留橋、南堀留橋を過ぎると俎橋(まないたばし)となる。この橋は靖国通りを渡す。さらに宝田橋、雉橋(きじばし)と続く。雉橋には説明板が立っている。この橋付近で外濠から平河濠に続いていて、江戸城本丸にも近かったため警備も厳しかったという。『雉橋でけんもほろほろに叱られる』(警備の厳しさと雉のけんけん鳴く声をかけている)。この辺りで高速道路は二手に分岐する。

雉橋(きじばし)
江戸時代、中国からの使者をもてなすため諸国から雉を集めた。そのときの雉小屋近くにこの橋があり、雉橋というようになった

俎橋(まないたばし)
靖国通りを渡している。遠くに靖国神社の大きな鳥居が見えたので、この通りは靖国通りだと気がついた

さらに一つ橋、錦橋、神田橋と続く。一ツ橋には説明板が立っている。徳川家康が江戸城に入った頃には、大きな丸木が一本かけられていて、その名で呼ばれていたという。寛永図(1624〜1643)には一ツ橋とかかれている。橋の近くに八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三家の一人として居を構えていた。そこで橋の名前をとって一ツ橋家と称するようになった。橋の北側、如水会館の一帯には商科大学(現一橋大学)があった。
その先の神田橋にも説明板が立っている。慶長7年(1602)頃の「別本慶長江戸図」にも橋が描かれ、「柴崎口」と名が記されている。その後、神田の町に出入りすることから「神田口橋」「神田橋」と呼称が変わってきた。ここにはかつて江戸城の守衛のために築かれた神田橋門があり、橋を渡った大手町側には桝形石垣があって、橋と一体で門を構成していた。この門を通る道筋は、将軍が上野寛永寺へ参詣するお成り道にあたっており、厳重に警備されていた。

神田橋
現在の橋は大正14年架設、長さ17.3m、幅34
m。日比谷通りを渡す。この道は将軍が上野寛永寺参詣時のお成り道だった

一ツ橋
現在の橋は大正14年(1925)架設、長さ19.6m、幅28m、コンクリート造り。一ツ橋家、一橋大学などの名称のもととなった

神田橋から川の下流方向を眺めると、川幅がかなり広くなり、高速道路への出入り口となっている。かつてこの辺り(神田橋から次の鎌倉橋の間あたり)は鎌倉河岸と呼ばれていた。
天正18年(1590)家康入国頃のこの河岸は、魚、青物のような生鮮食品をはじめ木材、茅などの物資の集まるところだった。江戸城築城のとき鎌倉から石材を荷揚げしたのでこの名がついたとも言われている。江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、木材、竹、薪などが多く荷揚げされた。(鎌倉橋脇に立っている説明板より)
川沿い左岸の一般道路を行くと、歩道脇に「物揚場跡」の碑が建っている。また、近くには「内神田一丁目」という町の歴史を解説した説明板も立っている。
その少し先に鎌倉橋がある。この橋の脇に鎌倉河岸跡という説明板が立っている。

小石川橋から下流方向を望む
すぐ先で日本橋川が右手直角に分かれてゆく。右手の橋は日本橋川に架かる新三崎橋、神田川の先に見える橋は後楽橋である

「旧市兵衛河岸説明板の立つあたり
神田川の船河原橋から水道橋一帯はかつて市兵衛河岸と呼ばれ、客船の船着場や荷物の物揚場があった高速道路は少し先で右に大きく曲がってゆく

お茶の水橋より神田川下流方向を望む
向こうに見える橋は聖橋(ひじりばし)。右手は御茶ノ水駅

お茶の水橋より神田川上流方向を望む
この川は江戸時代初期に人工的に開削されたものである水道橋からお茶の水橋までは橋がない

日本橋川遊歩道の様子
再開発後、川沿いに遊歩道が設けられた。高松藩上屋敷土蔵跡の礎石が歩道脇のベンチに利用されている

飯田町再開発地の現在の様子
この辺り一帯はしばらく前まで飯田橋貨物駅があったが、再開発された。発掘調査の結果、高松藩上屋敷の遺物がたくさん発見された

鎌倉橋
橋の脇に鎌倉河岸跡の説明板が立っている。河岸近くの豊島屋という酒屋で売り出す雛祭りの白酒は有名だった

物揚場跡碑と内神田一丁目説明板
右下に物揚場跡碑がある。近くに物揚場の説明とこの辺りの町名である内神田一丁目の歴史解説がある

神田橋から下流方向を望む
現在は川幅が広く、高速道路の出入り口になっているが、かつては鎌倉河岸と呼ばれ物資の集まるターミナルだった

日本橋川は鎌倉橋の先でJRの線路下をくぐる。川に沿った道はないので、並行した外堀通りを行くと新常盤橋信号に出る。この交差点で江戸通り、外堀通りが交差する。付近にはJRのガード、日本橋川の新常盤橋がかかっている。川沿いに走る外堀通りの少し先に日本銀行が建っている。その日本銀行の正面に古い石造りの橋がかかっている。これは旧常盤橋で、かつてはこの場所に常盤橋門が設けられていた。
常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にするため、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の桝形門である。現在の石橋は門跡の石なども使い、明治10年に架け替えられたもので、洋式石橋の創始と言われている。関東大震災後下流に常盤橋がかけられ、旧常盤橋は川を渡る歩道橋として使用されている。

常盤橋門桝形の一部
城門の桝形石垣の一部が残されている。「常盤橋門跡」として常盤橋とともに国の史跡に指定されている

旧常盤橋
日銀の正面前に架かっている、明治10年に架けられた石造の橋。現在は歩道橋として使用されている。関東大震災後下流に現在の常盤橋が架けられた

新常盤橋付近の様子
江戸通りと外堀通りの交差点、JR線路のガードなどが付近にある

現在の常盤橋は旧常盤橋の少し下流に架けられている。関東大震災の後、昭和元年12月に完成した。この橋から上流の旧常盤橋方面を見ると、川辺に下りてゆく階段があり、船着場になっていることが分かる。これは常盤橋防災船着場である。大規模災害など万一の場合にはここから船で防災拠点に脱出できる。日本橋川ではここに来るまでに、神田橋付近にも設けられていた。いざというときに備え、普段からこのような施設がどこにあるかを把握しておくことは必要だろう。

常盤橋防災船着場
旧常盤橋の近くに設けられている。大災害時などここから脱出することができる

常盤橋
現在の橋は旧常盤橋の少し下流に昭和元年に架けられた

常盤橋の次は一石(いちこく)橋である。この橋にも説明板が立っている。一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えている。橋名の由来として、北橋詰近くに幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くには幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、二つの後藤をもじって五斗+五斗で一石と名付けたという。
大正11年(1922)に鉄筋コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、重要な橋として使用されてきたが、平成9年に撤去され新しい橋に架け替えられた。その際、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせている。
親柱の横に「一石橋迷子知らせ石標」が建っている。これにも説明がついている。江戸時代も後半に入る頃、このへんから日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。迷子が出た場合、町内が責任を持って保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政4年(1857)にこれを建立したものである。利用方法は、左側のくぼみに迷子などの特徴を書いた紙をはり、それを見た人の中で知っている場合はその旨を書いた紙を右側のくぼみにはって知らせたという。いわば庶民の告知板として利用されていた。

一石橋親柱(大正時代のもの)
大正6年にそれまで木橋だったものを鉄骨コンクリート造りのモダンな橋に架け替えた。その橋も平成9年に撤去されたが、親柱一基が残された
親柱の横に迷子しらせ石標が建っている

一石橋迷子しらせ石標
正面には「満(ま)よい子の志るべ」、右側には「志らする方」左側には「たづぬる方」と彫り、上部にくぼみがある

一石橋の次は西河岸橋で、その次がいよいよ日本橋である。日本橋には日本国道路元標があり、日本の道路の起点となっている。私もこれまで東海道歩き旅、中山道歩き旅、甲州街道歩き旅のときにここを訪れ、ここから出発している。
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられている。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていた。橋詰めには高札場があり、魚河岸があったことでも有名である。現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成した。橋銘は徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表している。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、昭和47年に柱からプレートに変更された。平成11年5月には国の重要文化財に指定された。(説明板より)

日本橋親柱付近
橋銘は徳川慶喜の筆によるものである

日本橋
日本の中心に位置する橋である。現在の橋は明治44年に完成した。平成11年5月に国の重要文化財に指定された

これまで、日本橋川の上を通る首都高には数え切れないほどお世話になっている。しかし、車に乗りながら一度もその下を流れる日本橋川のことを考えたことはなかった。今回、この川に沿って歩いてみて、橋名や地名の歴史には輝かしさがあるが、川自体にはかつての輝きがなかった。東京オリンピックを目指した昭和30年代の東京大改造で、日本橋川の上には高速道路網が張り巡らされ、川面から光が奪われた。石原東京都知事は日本橋の景観について、橋の上の高速道路を何とかしたいというアドバルーンを上げているが、景観論争に結論が出るのはまだまだ先のことだろう。日本橋まで川沿いに歩いてみて、川がごみで汚れているという状況は見られなかったし、災害時の防災船着場などで少しでも川を活用しようという意識も感じられた。できるところから実行しようというのが当面の結論かもしれない。
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