玉川上水駅〜残堀川との立体交差(砂川)〜拝島駅〜日光橋公園・みずくらいど公園〜(奥多摩街道)〜宮本橋・加美上水公園〜第3水門〜羽村取水口(第1水門)〜羽村駅      約 14Km


9:40頃、多摩モノレールの玉川上水駅に着いた。玉川上水駅は、西武拝島線と多摩都市モノレールが交差している。南口駅前は、整備されているが店などはほとんどない。すぐ前を玉川上水が通っているので早速歩き始める。しばらくの間は右岸を歩く。これから先の玉川上水は、羽村の取水口まで両岸に高いフェンスが張られている。目障りだが、現役の水道用水ということでこれは致し方ないだろう。

高いフェンスの続く玉川上水べり
小平監視所から上流はこのような高いフェンスが続いている。寒風の中、散歩・ジョギングの人もチラホラみられた

玉川上水右岸の様子
歩き始めてしばらくは右岸を歩く。南側の土地は川より低く、畑が広がっている

しばらく右岸を歩き、次の千手橋で左岸に移る。これまで左岸を歩くことが多かったので統一性をとろうとしただけで、どちら側を歩いてもかまわない。なお、右岸、左岸というのは川の上流から下流に向かって右、左をいうことになっている。橋の上には高いフェンスは張ってないので、橋のあるところでは必ずといってよいほど写真をとった。さすがに現役の上水だけあって、水路敷はよく整備されている。金毘羅橋の少し先に砂川水衛所跡が残っている。この辺りは上水べりには珍しく竹林となっていた。

砂川水衛所跡
この辺りは上水べりには珍しく竹林になっている

千手橋より上流方面を望む
現役の上水だけに、水路敷はよく整備されている。葉を落とした木々と散り敷く落ち葉
次の橋は見影橋である。この橋の少し下流に「巴河岸跡」というのが絵図(玉川上水散策絵図)に載っている。「えっ、玉川上水に河岸が?」と思われる方も多いだろうが、明治の初年、維新のドサクサの中で玉川上水に通船が許可されたのである。この付近にその河岸があったというが、痕跡はまったく残っていない。
ここ砂川の名主・源五右衛門、福生の田村、羽村の島田氏などが中心となって明治3年に新政府に願い出、結局、明治3年4月15日から明治5年5月末日まで通船が実現した。上水事情に疎い役人が、事業による税収入などを見込んで許可したらしいが、もともと飲料用の川に舟を通すなど無理な話で2年間だけで終わった。明治22年には新宿〜立川間に甲武鉄道が開通し、上水の通船は昔語りとなった。
現在、付近には畑なども残っているが、西武拝島線が上水と並行して走っており宅地化が進んでいる。、

上水左岸から北方面を望む
西武拝島線が上水と並行して走っている。(武蔵砂川駅付近

見影橋より下流方向を望む
かつて、この付近に「巴河岸」があったという。玉川上水通船の夢は2年ではかなく消えた

現役の玉川上水べりの樹木はよく整備されており、代表的な樹木にはフェンスに樹木名が記されているので大変参考になる。クヌギ、コナラ、ケヤキ、エゴノキ、エノキ、サトサクラ、ニワウルシなどの落葉樹が圧倒的に多いが、青々と茂った常緑樹の並木も何ヶ所かあった。落葉樹は現在はすべて葉を落としているので、樹皮の様子で判断することになるがクヌギとコナラの違いなどはよく分からない。今後は葉をつけた樹木の様子も注意して観察してみたい。

上水べりには珍しい常緑樹の並木
何ヶ所かこのような並木があったが、残念ながら樹木名が分からなかった

クヌギの大木
上水べりの代表的な樹木の脇にはフェンスに樹木名が記されており参考になる。

拡幅工事中の新家橋の少し先で上水はいったん地下に潜る。ここで残堀川と立体交差しているのだ。ここはサイフォンの原理で、いったん地下に潜った水がすぐに地上に現れるようになっている。残堀川は西立川の昭和記念公園辺りから続いているが、いつ見ても水は流れていない。なお、残堀川は当初、玉川上水の助水となっていたということなので、かつてはその水は玉川上水に流れ込んでいたのだろう。いつ頃立体化されたのかは、まだ調べていない。

残堀川の少し先に大きな橋が架かっている。これは天王橋で、五日市街道が通っている。ここから二つ先の橋は松中橋というが、ここから上流方向左手に分水口が見える。近くに説明板があり、ここから分流する砂川分水は明暦3年(1657)の開通、柴崎分水は元文2年(1737)の開通で、それぞれ砂川新田、柴崎村(現 立川市)の人々に長い間生活・農業用水として利用されてきた、とある。水路が見えるが先がどうなっているかは分からない。玉川上水には全部で34口の分水口があったというが、その一つ一つに歴史とドラマがあったのだろう。玉川上水は、多くの人の生活に密着していただけに奥が深い。

松中橋の少し先で玉川上水は蓋をされてしまい、その上は玉川上水緑道となっている。何でこんなところにと思って絵図を見たら、説明が書いてあった。「戦時中、ここの右岸に戦闘機の滑走路があった。上水を横切っての延長計画があり、蓋をされたが、終戦となり実現しなかった」とある。緑道は約400mくらい続いおり、滑走路があったという右岸は現在はゴルフ場になっている。

ふたみ橋の先で西武拝島線は玉川上水を渡る。その少し先が終点の拝島駅だ。玉川上水は拝島駅北口のすぐ近くを通っている。北口は西武鉄道の駅となっているが、JRの青梅線、五日市線、八高線ともつながっている。駅前のコンビニで昼食の弁当を仕入れた。駅前の橋は平和橋といい、JRの引込み線が並行して通っている。

拝島駅近くの平和橋
拝島駅北口は店もあまりなく寂しいが、コンビニがあったので昼食の弁当を仕入れた

ふたみ橋より上流方向を望む
西武拝島線が玉川上水を渡る。少し先が終点の拝島駅だ

次の日光橋を渡り右岸に移る。この橋から先の右岸一帯は、日光橋公園として整備されている。川沿いの遊歩道は少し先で国道16号線と、またその先でJR八高線と立体交差するが、その後は公園の幅も広くなり、自然景観を生かしたすばらしい公園となっている。バードサンクチュアリとして整備されているところがあり、のぞき窓がたくさん設けてある。私もそこから覗き込んでみた。中には鳥の好みそうな茂みと水辺があったが、鳥の姿は見えなかった。寒いので、鳥もあまり活発ではないのかもしれない。時計を見ると12:15。近くにベンチとテーブルがあったので、ここで弁当を食べることにした。日があたらず寒かったが仕方がない。早々に食事を済ませて先を続ける。

公園の中にあるバードサンクチュアリ
のぞき窓から覗いた内部の様子。よく整備されているが、鳥の姿は見えなかった

日光橋公園
多奈川上水右岸に沿って長く続く公園。自然景観をそのまま生かしている

日光橋公園の西側に「みずくらいど公園」が続いている。ここに福生市指定史跡「玉川上水開削工事跡」の石標と説明板が立っている。説明板によると、「この付近の土地は、古くから『みずくらいど』と呼びならわされてきました。これは、玉川上水開削のおり,この付近で水が地中に吸い込まれ、工事が失敗した土地であるとの故事により発生したといわれています。・・・開削工事の跡は、五丁橋付近から平和橋付近まで約1Kmにわたって残存したと伝えられています。しかし、現在は、みうくらいど公園内および付近に開削工事の跡が残るのみです」
確かに、付近には掘削跡のような窪地がある。ただし、掘削跡といわれる約1Kmの区間は、地質学的には現在の玉川上水とほとんど変わらず、そのような場所で流した水がすべて地中に吸い込まれたというのは考えにくいという説もあることを記しておこう。

玉川上水開削工事跡と伝えられる窪地の様子先はJRの線路で途切れている

「玉川上水掘削工事跡」石標と説明板
この地は、平成2年11月1日に福生市指定史跡となった

みずくらいど公園を出ると五丁橋がある。この橋から先は川べりまで家屋が建っており、上水沿いの遊歩道はない。川からできるだけ離れないように歩いてゆくと、やがて新奥多摩街道にぶつかる。この道を通って福生橋を渡り、少しゆくと広い通りと交差するので、これを左に曲がると牛浜橋を経て奥多摩街道に出る。この道は玉川上水に沿っているので、これをまっすぐに行けば羽村につく。五丁橋から羽村取水口までは約4.5Kmくらいである。

奥多摩街道は清巌院橋で上水を渡り、その後は左岸をほぼ川沿いに進む。結構交通量も多いので、歩行には注意しよう。やがて、今は使われていない細い橋と、対岸に立派な門が見えてくる。これは田村家の門で、かつての通船時代にはこの付近にも河岸が出来たという。そういえば、福生の田村氏も明治新政府に通船を願い出た一人だった。現在は田村酒造という酒屋を営んでいるようだ。

上福生陸橋のすぐ先に宮本橋がある。これを渡ると右岸に川沿いの遊歩道が設けられている。ここから羽村取水口まで、この右岸の遊歩道を歩くことが出来る。少し先に加美上水公園がある。これも自然の景観を生かした公園である。この公園の中に玉川上水旧堀跡というのがあり、これも福生市指定史跡となっている。玉川上水は、開削後、たびかさなる多摩川の出水によって、福生市内の一部で上水の土手がしばしば崩壊し、通水に支障が生ずる恐れが出たため、元文5年(1740)に約600mほどの付け替え工事が行われたのだという。その跡が一部遺構として残されている。

右岸の加美上水公園の様子
公園内に、福生市指定史跡の玉川上水旧堀跡がある

奥多摩街道上福生陸橋と宮本橋
宮本橋を渡ると、右岸には遊歩道が羽村取水口まで続いている

公園の少し先の左岸で改修工事が行われていた。この辺の玉川上水は、拝島段丘の縁に沿って流れており、左岸は一段と高くなっている。この斜面の改修工事をしているのだ。この工事の案内板に大きく「水道工事」と書いてある。普通、水道工事というと町の中の水道管の工事をイメージするが、このような川の改修工事も「水道工事」なのだと気がついて何かおかしくなった。完成後のイメージ写真が掲示されており、斜面は緑に覆われていた。
少し先で、羽村大橋が頭上を越えてゆく。この橋は並行して流れている多摩川も一気に渡ってしまう長大な橋だ。さらに少し先に玉川上水の第3水門がある。ここから多摩川の水は地下導水管により、村山・山口貯水池に送られるのだ。

取水口から第3水門までの玉川上水の水量は、その下流に比べてずっと多い。かなりの量が第3水門から村山貯水池方面に送られているのだろう。羽村橋の少し先にちょっとした広場があって、ここに玉川兄弟の像が建てられている。玉川兄弟の出身についてはいろいろな説があり一定していないが、これは、兄弟は羽村の加藤家の出身という説に基づいて昭和33年に建てられたものである。ただし、その後の検証によると、加藤家の出身という根拠はないようである。玉川兄弟については、また後でふれてみたいと思っている。

取水口を望む地に建てられた玉川兄弟像
昭和33年9月5日、羽村町関係者を中心に盛大な除幕式が行われたという。以後,ずっと取水口の様子を見守っているかのようだ

羽村橋より第3水門方面を望む
取水口から第3水門までの水路は幅が広く、水量も多い。水門から地下で村山貯水池方面に向かう水と、ストレートに小平監視所まで流れる水が合流しているからだ

いよいよ今回の旅の終点、玉川上水羽村取水口に到着した。15時少し前だった。多摩川に直接つながっている第1水門には、勢いよく水が流れ込んでいる。多摩川の取水口としては、この場所が最適だといわれている。多摩川は対岸の草花段丘にぶつかって流れを変え、この取水口に向かって進んでくる。そこで水をせき止めるのだから、水はそのまま勢いよく取水口に流れ込んでくるというわけである。大水のときなどは堰を取り外して余分な水が上水に入り込まないような工夫もされている。基本的な考え方は、開削された当時も現在も変わらないという。当時の土木技術のレベルの高さを証明しているといってよいのだろう。

堰下橋から見た羽村取水堰付近の様子
多摩川に羽村堰下橋という人道橋がかかっている。ここから取水堰方面の全体的な姿を眺めることが出来る。ここから見ると、何か昔からの技術を生かした素朴な設備という感じがした

玉川上水第1水門(取水口)
多摩川の水はここから勢いよく流れ込んでいる。多摩川からの取水口としては、ここが最適な場所だといわれている。

羽村取水口からJR羽村駅までは県道163号線を行けば800mくらいである。私は油断して付近の地図を持たずに出てしまったので、方向感覚がつかめず40分ぐらいうろうろした挙句、人に聞いてようやく駅にたどり着くというありさまだった。近いということが分かっていれば、出来るだけ早く人に聞いたほうがよいと反省した。また、鉄道への最寄地図は必ずもつこと。
さて、次回は、玉川上水とセットで開削された野火止用水を歩いてみようと思っている。


  


玉川上水を歩く3

2月26日(土)に3回目の玉川上水ウォーキングに出かけた。前々日に東京地方にも雪が降り、もうほとんど残っていないのだがさすがに風はつめたい。

残堀川
狭山ヶ池を水源として昭和記念公園を経て多摩川に注ぐ川。水量が著しく減少し、中流域では水枯れを起こしている

地下に潜った上水の出口
残堀川と立体交差するため、上水はいったん地下に潜り、ここで再び地上に現れる。この場所にかつて砂川水衛所があった

砂川、柴崎分水口付近の様子
松中橋上流左手に分水口が見える。砂川新田、柴崎村の背勝、農業用水として利用されてきた

天王橋
車の往来が激しい五日市街道とここで再会するが、すぐに離れていってしまう。

牛浜橋
新奥多摩街道と奥多摩街道を結んでいる

五丁橋から上流方向を望む
ここから先は、川沿いの遊歩道はなくなる

緑道の西端から上流方向を望む
かつて戦闘機の滑走路があったという右岸(写真左側)は、現在はゴルフ場になっている

蓋をされた玉川上水
約400mの間、玉川上水は蓋をされ、玉川上水緑道となっている

玉川上水通船時代の河岸跡付近
田村酒造を営む田村家の門が川に向かって設けられている橋は現在使われていない

奥多摩街道と玉川上水
清巌院橋を渡った後、街道は左岸に移り川沿いに進む。上福生陸橋より下流方向を望む

玉川上水第3水門
左側の大きな水門を出た後、多摩川の水は地下導水管に入り、村山・山口貯水池に送られる

堂橋より下流方面を望む
左岸一帯の斜面が「水道工事中」だった